【光る君へ】ドラマではカットされた、懐妊した藤原定子への数々の嫌がらせ
大河ドラマ「光る君へ」ではカットされた模様だが、藤原彰子の一条天皇への入内に伴って、藤原定子への嫌がらせが行われていた。この点について考察してみよう。
一条天皇の中宮の定子は、長徳の変で兄弟の伊周・隆家が左遷されたショックもあり、自ら髪を切ったので出家したとみなされた。今まで出家した中宮はいなかったので、一条天皇と定子は窮地に陥った。
そこで持ち上がったのが、藤原道長の娘の彰子の入内である。道長とすればチャンスだったので、この機会を逃すわけにはいかなかった。一方で、一条天皇と定子の愛情は決して変わることがなかった。
彰子が入内したのは、長保2年(1000)のことである。ちょうど同じ時期、定子の懐妊が発覚した。この一報を耳にした道長は、強い危機感を抱いた。万が一、定子が男子を産んだ場合は、その子が次の天皇になる可能性が非常に高かったからである。
定子は周囲が望まない妊娠をしたので、嫌がらせを受けることになった。同年6月、修理職から出火して瞬く間に広がり、内裏が全焼してしまうことがあった。原因はよくわかっていない。
ところが、出火したことは、定子に責任があるという風聞がまことしやかに流れた。そう言いふらしたのは、道長と昵懇の漢学者の大江匡衡である。匡衡は、自宅で物忌みのため慎んでいる藤原行成の屋敷に赴いた。
すると匡衡は、さりげなく行成に対して「則天武后(高宗の皇后)が宮廷に入ったので、唐の王朝は滅亡した」と述べた。則天武后は、中国史上唯一の女帝で、悪政を行ったといわれている。
つまり、匡衡は定子を則天武后になぞらえて、国を滅亡に追い込む存在であると述べたに等しいのである。当時、行成は蔵人頭として、一条天皇と定子、道長ら公家との間で苦悩しており、職を辞する夢を見たという。
その後も、定子が出産のために平生昌の屋敷に移る際、道長は定子のお供をする人が必要と知りつつ、宇治の別荘に宿泊した。公家は定子のお供をするか、道長に同行するか決断を迫られたのだ。
結局、公家の多くは様子見することにした。その間で、調整に忙殺されたのが行成だった。一条天皇も腹立たしい思いだっただろうが、もっとも立腹したのは、定子に仕えていた清少納言である。とはいえ、定子は無事に男子を産んだのである。