「1年のつもりが…」J2水戸ホーリーホック前社長、激動の12年と静かな引き際
■水戸のバンディエラ、本間幸司が語る「前社長の功績」
J2水戸ホーリーホックの前社長、沼田邦郎氏に話を聞いたのは8月3日のこと。同クラブ出身の日本代表、前田大然がポルトガルのマリティモを退団し、J1の横浜F・マリノスへの期限付き移籍が発表された日と重なった。退任から3週間がたつが「特に感慨はないですね」と前社長はそっけない。
今年56歳になる沼田氏は、このほど12年にわたり続けてきた社長のポジションを、副社長だった45歳の小島耕氏に引き継いでいる。水戸のサポーターにとっては、さぞかし感慨深く感じられただろうが、それ以外のサッカーファンの間では、この社長交代が大きな話題になることはなかった。
確かに「J2だから」という理由は、あるかもしれない。だが、同じくJ2のファジアーノ岡山の社長を12年務めて、2年前にJリーグ専務理事に抜擢された木村正明氏の退任は、全国ニュースになった。それに比べると、水戸の社長交代についてのメディアの扱いは、かなり地味な印象を拭えない。そんな中、クラブがJFLだった99年から所属するGKの本間幸司は、沼田氏の功績についてこう力説する。
「沼田さんが社長になる前後では、何もかもが変わりましたね。以前は練習場が決まっていなくて、シャワーもロッカーもありませんでした。街で声をかけられることも、ほとんどなかったです(笑)。今は地元で、ホーリーホックを知らない人はいないだろうし、2年前には専用トレーニング施設も完成しました。そして今も新スタジアムの話が動いています。これらはすべて、沼田さんが社長になった12年間での変化ですよ!」
沼田社長時代の12年は、苦難と激動の連続でもあった。社長に就任した08年には、リーマンショックが経営を直撃。3年後の11年には東日本大震災があり、さらに今年はコロナ禍。Jクラブのトップを長く務めた人は他にもいるが、これだけの災厄を「当事者」として受け止めたクラブ社長は珍しい。そして沼田氏は、地域から愛される初めての社長でもあった。
■「仕方なく」社長を引き受け、Jリーグチェアマンに直談判
「今でこそ街を歩けば『社長!』って声をかけられますが、僕が社長になったばかりの頃は、ホーリーホックの名刺を渡しても『なんですか?』って顔をされて(苦笑)。それで、本業のバンビ鞄工房の名刺も見せたら『あ、バンビさんの人が、サッカー(クラブ)の社長なんですか!』って。そんな感じでしたよ」
苦笑まじりに、当時を振り返る沼田氏。バンビ鞄工房(社名はヌマタ商事)は、代々続くかばんメーカーで、茨城県内のランドセルのシェア1位を誇るブランド。同社の常務取締役だった沼田氏は、水戸市サッカー協会の理事だった関係から、クラブの非常勤取締役も務めていた。ところが2008年4月、当時のクラブ社長が不祥事(飲酒運転)で退任することになり、沼田氏が後任に選ばれることとなる。当時43歳。
「要するに、誰もなり手がないので引き受けました。『仕方なく』というのが正直なところでしたが、地元にJリーグの灯火は消しちゃいけないという思いはありましたね。それともうひとつ、このクラブをしっかりした会社にする必要性は感じていました。その道筋を作るのに、1〜2年くらいあればと思っていましたが、まさか12年も続けることになるとはね(苦笑)」
08年当時、クラブは単に知名度がなかっただけでなく、そもそも会社としての体(てい)をなしていなかった。就業規則もなければ、契約書もなかったという。加えて沼田氏自身、クラブ経営の知識もノウハウも、まったく持ち合わせていなかった。そこで新社長は、Jリーグの鬼武健二チェアマン(当時)への直談判を決断する。
「何も知らなかったんですよ、Jリーグの商売というものを。だって、こっちはかばんの商売しかやったことないわけだし(笑)。それで鬼武さんに『ウチはJリーグの水戸支店なんですか?』って聞いたら、違うと言うから『だったら教えてください』と。そうしたら、Jリーグのシニアアドバイサーだった方をご紹介いただいて、経営やガバナンスやコンプライアンスの整備などをご指導いただきました。就業規則も契約書も、その時にやっとできましたよ」
■ターニングポイントとなった2011年の東日本大震災
水戸で総務と経理を統括する鈴木郁恵氏は、フロントの中では最も社歴が長く、沼田社長の12年間をずっと間近で見つめ続けてきた。そんな彼女に、沼田社長時代のターニングポイントはいつだったのか尋ねると、間髪入れず「東日本大震災があった2011年ですね」という答えが返ってきた。
「この年に、初めて水戸市からご支援をいただくことになりました。沼田さんがあちこちに頭を下げ続けたおかげで、スポンサーの数も増えました。Jリーグからの借入金3000万円を返済したのも、この年です」
実は水戸はクラブ創設時から、地元行政との関係がこじれていた。クラブのルーツをたどると、1994年に設立されたFC水戸と、その3年後に土浦から移転してきたプリマハムFC土浦との合併に行き着く。当初は「よそ者」のイメージが地元では根強く、初代社長も「こちらから頭を下げてまで応援してほしいとは思わない」というスタンスだったという。以下、沼田氏の回想。
「水戸市とクラブとの間で『一切、支援しない』という協定書があったくらいです。それが修復されたのが、まさに2011年。市長が高橋(靖)さんに変わって、協定書を無効にしてくれただけでなく、500万円の出資金を市から受けることになりました。スポンサーについても、それまでの非礼を謝り続けて3年もたつと、だんだん応援してくれる人が増えてくるのを実感しましたね」
沼田氏の性格について、何度も営業に同行した新社長の小島氏は「実はかなり気性は激しいのに、ぐっと我慢していることも多かったですね。社長時代は孤独だったと思います」と教えてくれた。各方面に頭を下げまくっていた頃の心情について、当人は決して多くを語ろうとはしない。いずれにせよ、11年の危機を乗り越えた水戸は、翌年から少しずつ攻めの姿勢に転じてゆく。
■ガルパンとのコラボ、インバウンド、そして『アツマーレ』
その後の水戸の変化については、一冊の本になりそうなくらい充実している。特に目立ったトピックスのみを箇条書きにすると、以下のとおり。
・2013年 アニメ『ガールズ&パンツァー(ガルパン)』とのコラボレーション開始
・2016年 「ベトナムのメッシ」ことグエン・コンフォンを期限付きで獲得。インバウンドを目的としたベトナムからの観戦ツアーを企画
・2018年 城里町の廃校を再利用したトレーニング施設兼クラブハウス『アツマーレ』がオープン
・2019年 クラブ設立30周年となる2024年を目標に新スタジアム建設の構想を発表
・2020年 eスポーツチーム立ち上げを発表
「Jリーグ自体が持っているポテンシャルを、もっと活用しないともったいないという思いはありましたね。ベトナムのインバウンドは、Jリーグが押し進めていたアジア戦略とうまく絡めることができました。アツマーレについても、われわれがグラウンドに苦労していることをご存じだった、城里町の新しい町長から声をかけていただきました。ウチは予算が限られているので『これだったらホーリーホックを支援できる』という柱を、何本も作りたかったんです」
ここ数年のクラブの取り組みについて、沼田氏はこう語っている。その一方で「絶対に無理をしない」という経営方針は一貫していた。大口の投資話があっても、継続が見込めない案件は断ることもあったという。決して派手さはないものの、着実な成長を続けながらホットな話題を提供し続ける水戸は、やがてJ2でも注目される存在となっていく。しかし──。
「去年の6月、クラブの残業代未払いとパワハラの問題が明るみに出ました。その年の秋には解決したと認識していますが、11月に新スタジアム構想を発表した時には、沼田の中で『そろそろ(社長は)いいんじゃないか』という思いが芽生えていたんだと思います。加えて、このクラブをさらに大きくするには、東京など県外の企業にも応援していただく必要があります。そう考えた時、次の世代に経営を託したほうがいいという判断になったんでしょうね」
そう語るのは、新社長の小島氏である。かくして今年7月16日、いささか唐突とも思える、水戸ホーリーホックの社長交代が発表された。沼田氏の社長在任中、予算規模は3億円から7億5000万円、平均入場者数も3044人から6087人と倍増。そして昨シーズンは、過去最高となる7位に上り詰めた。この12年間、カテゴリーはずっとJ2のまま。それでも前社長は、多くのレガシーを残して、社長の座を退くこととなったのである。
■コロナ禍での社長交代と前社長が12年間に残したもの
図らずも今回の社長交代は、まさにコロナ禍がクラブ経営を逼迫する中で断行されることとなった。「今回のコロナ禍で、時代の流れが一気に早まってしまいましたよね。こういう難しい時代だからこそ、切り替われない会社はダメになると思っています。良い変化を期待して(社長交代という)決断をしました」と沼田氏。ならばバトンを受け取る側にも、前社長の12年間について語ってもらうことにしよう。
「マイナスからゼロへ、そしてゼロからある程度のところまで導いてくれた人だと思っています。この12年で、確かにクラブの予算規模は2倍以上になりました。けれどもJ2の平均以下で、下から数えて2番目という状況に変わりはありません。次のステップに進むという意味では、いいタイミングでの社長交代だったと思います」(鈴木氏)
「昔は水戸ホーリーホックの名刺を見せても、ほとんどの人から相手にされない時代がありました。でも今は、ウチのエンブレムが入った名刺で、この地域の誰にでも会うことができます。沼田が作ってくれた強固な礎を、いかに引き継いで何を生み出すべきか。それは今後のわれわれの働きに、かかっていると思っています」(小島氏)
今回の沼田氏へのインタビューで、特に印象的だったのが「ウチは人が育っていくクラブ」という言葉。思えば水戸からは、多くのタレントが巣立っている。選手でいえば、田中マルクス闘莉王、パク・チュホ、塩谷司、そして前田大然。指導者では、今季からベガルタ仙台で指揮を執る木山隆之監督。モンテディオ山形の相田健太郎社長も、水戸の営業出身である。当の沼田氏自身、実はまだ成長の過程にあるのかもしれない。社長退任後も、新たなミッションのことで頭がいっぱい。感傷に浸る気分は微塵もない様子だ。
「退任セレモニーの時、小島をはじめスタッフ全員が、僕が泣くのを期待していたんですよ。あいにく、感極まることはなかったですね。社長ではなくなりましたが、ちょくちょく事務所には顔を出しますし、新スタジアム建設という大きな目標もありますから。ぐるぐる泳ぎ回って、止まったら死ぬ回遊魚みたいなもんですよ。え、マグロ? そんな高級ではない(笑)。せいぜいイワシか、いいところでアジかサバですかね」
沼田邦郎(ぬまたくにお)
1964年11月5日生まれ、茨城県水戸市出身。
茨城キリスト教学園高校卒業後、株式会社ヌマタ商事入社。同社常務取締役、水戸市サッカー協会理事長を務めたのち、2008年4月に株式会社フットボールクラブ水戸ホーリーホック代表取締役社長。18年3月からJリーグ非常勤理事を務める。
20年7月、12年務めた水戸の代表取締役社長を退任し、一般社団法人ホーリーホックIBARAKIクラブの代表理事に就任。
<写真はすべて筆者撮影>
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