マイケル・モンロー/パンク・ロックの原点とデモリッション23の回想【前編】
ロックンロールは止まらない。
マイケル・モンローは1981年、ハノイ・ロックスのヴォーカリストとしてレコード・デビュー。ハードでパンキッシュなロックンロールとグラマラスなヴィジュアルが世界を席巻、母国フィンランドのみならずヨーロッパ、アメリカ、日本などで熱狂的な支持を得て、ガンズ&ローゼズを筆頭に続く世代のバンドにも多大な影響を与えてきた。今や“ロック大国”と呼ばれるフィンランドだが、その扉を大きく開け放ったのがハノイ・ロックスだった。
現在ではソロ・アーティストとして活躍するマイケルは2022年に最新アルバム『アイ・リヴ・トゥー・ファスト・トゥ・ダイ・ヤング!』を発表、9月23日にはヘルシンキで60歳記念ライヴ“60thバースデイ・バッシュ”を行うなど、ハイオクタンのロックンロールで突っ走り続ける。さらには1994年にデモリッション23を率いて発表したアルバム『デモリッション23』が新装再発されるなど、その存在はいつだってロック界の台風の目だ。
そんなマイケルのバックボーンとして背骨を貫いているのがパンク・ロックだ。このインタビューでは全2回の記事で、その源流を遡ってみたい。まず前編記事では彼の近況と、『デモリッション23』で描かれるパンク・ロックへの愛と敬意について訊く。
<社会体制を揺るがして、顔面に叩きつけるパンク・エッジのあるロックンロール>
●60歳記念ライヴ“60thバースデイ・バッシュ”を行った感想を教えて下さい。
スペシャルな夜だったよ。休憩を挟んで3時間、全37曲のショーだったんだ。ハノイ・ロックス、ソロ、デモリッション23と、歴代のバンドの曲をプレイした。長いあいだプレイしてこなかった曲もやったし、オリジナル編成のハノイ・ロックスを40年ぶりに復活させた。ドラマーのジップ・カジノは体調が良くなくてずっとプレイしていなかったけど、久々に一緒にやれて嬉しかったね。ジンジャー・ワイルドハートやドレゲンもゲスト参加して、とにかく楽しかった。一夜だけのマジカルなショーだった。次にやるとしたら70歳記念ライヴかな。それまで元気でいたいね(笑)。
●デモリッション23の曲はどんなメンバーでやったのですか?
サミ(ヤッファ)とナスティ(スーサイド)、それから俺のソロ・バンドでやっているカール・ロックフィストがドラムスを担当したんだ。当初はアルバム『デモリッション23』でプレイしたジミー・クラークが出演する筈だった。“バースデイ・バッシュ”をやることになって、ジミーは「嫁と一緒に見に来る」と連絡してきた。俺は「サミとナスティも出るし、だったら君もステージに上がってくれよ。デモリッション23の再結成ということで、5曲ぐらいプレイしよう」と提案した。それから「イエー!みんなの尻を蹴り上げる最高のショーになるぜ!」とか、何度も携帯メッセージをやり取りした。でも3週間ぐらい前になって、参加出来ないと言ってきたんだ。
●...あれれ。
ジミーはラーズ・ウルリッヒのドラム・テクをやっているんだけど、“バースデイ・バッシュ”の翌日にメタリカがニューヨークでショーを行うことになって、抜けられなくなった。急遽決まったイベントで、ラーズはその日だけ誰か代わりの人にドラム・テクをやってもらっても良いと言ってくれたけど、マネージメントが許可しなかったらしい。それでジミーは参加出来なくなったけど、自分のショーのオープニング・アクトをデモリッション23がやるというのはクールなアイディアだと思ったんで、カールを加えてやることにしたんだよ。グレイトなステージになったし、お客さんも最高にワイルドに盛り上がってくれたよ。
●今後デモリッション23としてのライヴをやる可能性はありますか?
アルバム『デモリッション23』が“ウィキッド・クール・レコーズ”から再発されるから、再結成ツアーをやってもクールだと思う。良いバンドだったし、1994年にアルバムが出て、ここしばらく廃盤だったから、初めて聴くファンもいると思うんだ。そんな彼らのためにライヴを出来たら最高だよ。まだ具体的な計画はないけど、サミやナスティと話してみるつもりだ。ジェイ・ヘニングは亡くなってしまったけど、彼の魂は音楽と共にあり続けるよ。
●『デモリッション23』は素晴らしいアルバムだし、むしろ廃盤状態だったというのに少々驚きました。
うん、日本ではかなり売れたし、今でも中古盤CDが手に入るかも知れないけど、イギリスではインディーズの“ミュージック・フォー・ネイションズ”からのリリースで、プレス数が少なかった。それにアメリカでリリースされるのは今回が初めてなんだ。もう何年も前からリトル・スティーヴンと話し合ってきたけど、彼の経営するレーベル“ウィキッド・クール”から再発されることになった。リマスタリングを経てサウンドがよりクリアーでパワフルになって、アルバム制作の前に“ベイビー・モンスター・スタジオ”で録ったデモ3曲をボーナス収録したんだ。近年の俺のアルバム・アートワークを手がけているリッチ・ジョーンズが新装ヴァージョンのブックレットのデザインをして、当時のレアな写真も載っている。初めてアナログ盤LPも作られるし、とてもハッピーだよ。
●『デモリッション23』はあなたのパンク・ロックへの愛情と敬意を込めたアルバムですね。「ハマースミス・パレ」「ザ・スカム・リヴズ・オン」などは古き良きパンク・シーンを描いているし、カヴァー曲もザ・デッド・ボーイズの「エイント・ナッシン・トゥ・ドゥ」、ジョニー・サンダース&ザ・ハートブレイカーズの「アイ・ウォナ・ビー・ラヴド」、UKサブスの「エンデインジャード・スピーシーズ」がレコーディングされています。
とにかくストレートで正直でベーシック、社会体制を揺るがして、顔面に叩きつけるパンク・エッジのあるロックンロール・アルバムを作りたかったんだ。スティヴ・ベイターズ、ジョニー・サンダース、ロブ・タイナーといった俺のヒーロー達へのリスペクトを込めている。彼らはメインストリームでは決してメジャーではないかも知れないけれど、ロックンロールの歴史においては重要な存在だよ。スティヴがやっていたザ・デッド・ボーイズとローズ・オブ・ザ・ニュー・チャーチからはすごい影響を受けたんだ。彼の歌詞には深い意味が込められていて、真実があった。
●さらにデモリッション23のライヴではMC5の「キック・アウト・ザ・ジャムズ」やザ・ストゥージズの「1970」、イギー&ザ・ストゥージズの「アイ・ガット・ア・ライト」などのパンク・クラシックスがプレイされていました。
うん、俺自身が好きな曲ということもあるけど、若い音楽ファンがパンク・ロックを聴き始めるきっかけになったら最高にファンタスティックだと考えたんだ。リトル・スティーヴンはプロデューサーとして、そんな俺の意図を汲んでくれた。彼自身、俺との作業を経ていろんなパンク・ロックを聴くようになったんだ。『デモリッション23』の曲作りのとき、ムードを盛り上げるためにセックス・ピストルズの『勝手にしやがれ!!』を流していたし、彼を初めてイギー・ポップのライヴに連れていったのも俺だった。セックス・ピストルズの映画『ザ・グレイト・ロックンロール・スウィンドル』のビデオをクリスマスにプレゼントしたりもした。「ワオ、最高だ!」と喜んでいたよ(笑)。
●『デモリッション23』の制作過程はどのようなものでしたか?
パンク・ロックの勢いに乗って、すごい速さで出来上がったんだ。ベーシック・トラックを3日、ヴォーカルを2日で録ってしまったし、ミックスも1日1曲のペースでやったから2週間もかからなかった。時間を無駄にせずスピーディーに作ったことで、ライヴのフィーリングを収めることが出来たよ。ウォリアー・ソウルのコリー・クラークもバック・ヴォーカルで参加してくれたし、このアルバムと『ノット・フェイキン・イット』(1989)の生々しいヴァイブは最高に気に入っている。
<リトル・スティーヴンとスティヴ・ベイターズは世界で最もクールな2人だった>
●リトル・スティーヴンは自らアーティストとして活動しながらブルース・スプリングスティーンのEストリート・バンドの一員であり、TVシリーズ『ザ・ソプラノズ 哀愁のマフィア』で俳優としても知られますが、彼とはいつ、どのように知り合ったのですか?
ハノイ・ロックスが1985年に解散して、俺はロンドンのポートベロ・ロードのアパートでスティヴ・ベイターズと同居していたんだ。スティヴがローズ・オブ・ザ・ニュー・チャーチのライヴをニューヨークでやったとき、スティーヴンが見に来ていて、彼らのレコードをプロデュースしたいと言ってきた。それでロンドンで打ち合わせをしたんだ。俺はスティーヴンの『ヴォイス・オブ・アメリカ』(1984)が大好きだったし、紹介してもらった。スティヴとスティーヴンは「ローズ・プレアー」という曲をシングルとして出す打ち合わせをしていたよ。世界で最もクールな2人の人間と同じ空間にいることにスリルを感じたね。それまでスティーヴンは俺のことも、ハノイ・ロックスも知らなかったけど、「ブルーヴァード・オブ・ブロークン・ドリームス」のビデオを見て気に入ってくれた。「ワオ、すごく良いバンドだね。今は何をやっているの?」と訊くから「実は解散したんだ」と言ったら驚いていたよ(笑)。...俺がソロ・キャリアを始めるにあたって大きなインスピレーションとなったのがローズ・オブ・ザ・ニュー・チャーチだった。ああいう音楽をやりたかったんだ。スティーヴンも「ソロでやってみなよ」と背中を押してくれた。後に『ナイツ・アー・ソー・ロング』(1987)の設計図となる俺のデモにも参加してくれたよ。
●リトル・スティーヴンが提唱した“アパルトヘイトに反対するアーティストたち”プロジェクトの「サン・シティ」(1985)にあなたとスティヴが参加したのも、そんな流れで実現したのですか?
うん、バック・ヴォーカルを歌って、ニューヨークで撮影されたミュージック・ビデオにも出演しているんだ。当時の南アフリカの状況を世界の人々に伝えたことは有意義だったし、ブルース・スプリングスティーンやボブ・ディラン、マイルス・デイヴィスと同じレコードに参加出来たことは誇りにしているよ。それがきっかけとなって、俺はニューヨークに住むことにしたんだ。それからもスティーヴンとはずっと友達でいた。俺の『ノット・フェイキン・イット』も手伝ってくれたし、「デッド、ジェイル・オア・ロックンロール」を共作して、俺のソロ・キャリアを軌道に乗せるエネルギー源のひとつとなったんだ。サウンド的にはまるで異なるけど、『ノット・フェイキン・イット』のメッセージ性は「サン・シティ」を意識していた。意味のある、世界に疑問を呈する歌詞を書こうとしたんだよ。このアルバムではスティヴにも助けてもらったんだ。彼が亡くなって、自分の一部分を失ったようだったよ。その欠けた部分は、今も穴が空いたままだ。
●『ノット・フェイキン・イット』の後、スティーヴ・スティーヴンズとのスーパーグループ、エルサレム・スリムを結成しましたが、短命に終わってしまったのはどんな事情があったのでしょうか?
あのバンドは俺のキャリアに黒い痕を残すことになった。大惨事だったよ。アルバム(『マイケル・モンロー・アンド・エルサレム・スリム』/1992)はリトル・スティーヴンにプロデュースしてもらいたかったけど、契約した“ポリグラム・レコーズ”はそれを認めなかったんだ。彼らが提案してきたのはヘヴィ・メタル系のプロデューサーのマイケル・ワグナーだった。それで俺がイメージしていたサウンドからどんどん離れていって、巨額の費用だけが積み上がっていった。その間、スティーヴはギターのサウンドを「ああでもないこうでもない」といじっていた。当時のマネージャーは何もせず、そのまま大金が窓から飛んでいったんだ。さらにスティーヴがマイケル・ワグナーと揉めて...悪夢だったよ。最終的に100万ドルぐらい借金が出来て、“ポリグラム”からクビになった。そのせいでアメリカ市場でビッグ・スターになる可能性は失われた。まあ、そんなことはどうでも良かったけど、自分の納得出来ないクオリティの作品をリリースしたことは悔やんでいるよ。だからその次に作った『デモリッション23』がクールなアルバムになったことが嬉しいし、今でも愛着があるんだ。
●デモリッション23はどのように始動したのですか?
俺はニューヨークに住んでいたから1993年、13丁目のかつて“キャット・クラブ”があったところに出来た“ザ・グランド”で毎週月曜に“グラム、トラッシュ&パンクwithマイケル・モンロー&フレンズ”というイベントを10週連続で開催したんだ。MC5、ストゥージズ、バンド時代のアリス・クーパー、ラモーンズ、ザ・デッド・ボーイズ、ザ・ダムド、セックス・ピストルズ、モット・ザ・フープル、フェイセズ、初期のデヴィッド・ボウイなどの映像をスクリーンに映して、午前零時になるとライヴをやっていた。俺、サミ、ジミー、ジェイ・ヘニングという顔ぶれで、UKサブス、ザ・ラッツみたいなお気に入りパンク・バンドのカヴァーをやったよ。ハノイ・ロックスの曲もたまにプレイしていた。毎回サプライズ・ゲストを呼んだんだ。最初に来てくれたのはジョーイ・ラモーンで、「ブリッツクリーグ・バップ」「シーナはパンク・ロッカー」「アイ・ウォナ・ビー・セデイテッド」を歌ってくれたよ。イアン・ハンターが来て「ワンス・ビトゥン・トゥワイス・シャイ」「ロール・アウェイ・ザ・ストーン」「すべての若き野郎ども」を歌ったこともあったし、コリー・クラークやセバスチャン・バック、元ミスフィッツのボビー・スティールも来てくれた。セバスチャンは「ようデュード、ハノイの曲をやろうぜ」とか言っていたよ(笑)。それが発展したのがデモリッション23だったんだ。
後編記事ではさらにマイケルのパンク・ルーツを掘り下げ、現代の生けるレジェンドとしてのステータス、今後の活動などに焦点を当ててみたい。
【デモリッション23 Bandcampサイト】
https://demolition23.bandcamp.com/
【日本レコード会社公式サイト】
ビクターエンタテインメント/マイケル・モンロー
https://www.jvcmusic.co.jp/-/Discography/A023218/VIZP-171.html