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【光る君へ】藤原伊周・隆家兄弟が大喜びした、妹の定子が男子を産んだこと

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、主人公の「まひろ」(紫式部)以上に注目されているのが一条天皇の中宮の藤原定子である。定子は一条天皇との間に男子をもうけたが、大喜びしたのは藤原伊周・隆家兄弟だった。その辺りを取り上げることにしよう。

 藤原道隆の娘・定子が一条天皇の中宮になったのは、正暦元年(990)のことである。当時、道隆は我が世の春を謳歌しており、子の伊周は内大臣に大出世することになる。これで道隆の系統の中関白家も安泰かと思われたが、次々と不幸が訪れた。

 長徳元年(995)、道隆が亡くなると、弟の道兼がその跡を継いだ。しかし、道兼はすぐに亡くなったので、伊周と道長(道隆、道兼の弟)が後継者の座を争った。その結果、道長が伊周を退け、内覧の座を勝ち取ったのである。

 翌年、伊周・隆家の兄弟の従者が花山法皇の衣の袖を射るという事件を起こした。この一報を耳にした一条天皇は、2人の左遷を決定する。その後、2人の捜索が行われると、あまりのショックに定子は発作的に髪を切ったので、出家したとみなされた。

 出家した中宮という先例はなかったので、公家の心証が極めて悪く、一条天皇は窮地に陥った。しかし、長徳2年(997)に定子は、脩子内親王を産んだのである。その後も、一条天皇と定子の関係は変わらなかった。

 長保元年(999)、定子は敦康親王を産んだ。むろん、一条天皇は大喜びだったが、伊周・隆家もチャンスが訪れたと考え、大喜びしたのである。この頃、2人は罪を許され、帰京していた。

 この年は、道長の娘の彰子が入内しており、道隆の系統の中関白家は大ピンチだった。しかし、敦康親王が将来的に天皇になることがあれば、挽回する可能性が残されていたのである。

 寛弘5年(1008)、一条天皇と彰子との間に敦成親王が誕生した。一条天皇は定子との間に産まれた敦康親王を皇太子にしようとしたが、道長に配慮して断念し、寛弘8年(1011)に敦成親王を皇太子にしたのである。

 なお、伊周はこの結果を知ることなく、寛弘7年(1010)に亡くなった。隆家は伊周よりも長生きしたが、ついに摂政、関白の座に就くことはなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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