南北「国境」で聞いた韓国の本音…不安と緊張の一年を振り返る
核・ミサイル・空母・戦闘機そして軍事境界線での北朝鮮兵士亡命…年間を通じ、緊張が張り詰めたままの朝鮮半島。そこに住む人は戦争をどう捉えているのか。分断の最前線「DMZ」を踏破し、韓国人の本音を探った。
なぜ今、DMZ(非武装地帯)なのか?
一年の締めくくりに、筆者は250キロにおよぶ南北の「国境」地帯、特に近づける限界ラインのDMZ(非武装地帯)を訪ねることを思い立った。理由は二つある。
まずはここが「戦場」に最も近い場所であるからだ。米側がもし北朝鮮を先制攻撃した場合、反撃する北朝鮮の砲弾が真っ先に降り注ぐ。さらに、1950年から53年にかけて朝鮮半島を焦土化させ、今も「休戦中」に過ぎない「朝鮮戦争」の現場でもある。
次に「韓国人の本音」を知りたかった。筆者が住む忙しいソウルの日常では、北で何が起ころうとも、人々は自分の生活を優先させクールに振る舞う。だが、北朝鮮と数キロという「非日常」の場所に行けば、本音が聞けるのではという期待があった。
現地の様子はどうなのか、人々の表情はどうなのか、そして今年をどんな気持ちで過ごしたのか。筆者は11月下旬から12月中旬にかけて、自家用車で約1500キロを踏破した。
南北の衝突を避けるためのDMZ
南北には一般的な「国境」は存在しない。韓国が朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の存在を認めていないからだ。
その代わり、南北の国境は「軍事境界線(MDL)」と呼ばれる。そしてその南北両側の2キロずつが「非武装地帯(DMZ)」だ。これらの取り決めはすべて1953年7月に調印された、朝鮮戦争の休戦協定による。
同協定の第1条には「双方は非武装地帯を設定する」とある。偶発的な事故をなるべく減らすため重火器を軍事境界線から離そう、という取り決めだ。
さらに米軍によりDMZから南側5〜20キロ地点が「帰農限界線」として設定された。これは1959年に「民間人統制線(民統線CCZ)」と名を変え、今に至る。
それでは地図に振った番号に沿って南北「国境」の姿を伝えていく。
1:「DMZの西端」烏頭山統一展望台
出発地のソウルからDMZは北側に位置する。まずは北西、DMZ最西端の「烏頭山(オドゥサン)統一展望台」に向かう。ちなみにソウルから南北軍事境界線まではわずか55キロ、車ならば1時間の距離だ。
道路には平壌(ピョンヤン)、開城(ケソン)などの標識が次々に登場する。途中からは北側に鉄条網が設置され、定期的に軍の偵察所があるなど、北朝鮮が現実の脅威であることを否応なく意識させられる。
展望台に着くと、午前中にも関わらず少なくない人が思い思いに北側を眺めていた。
ソウルから家族で来たというピョン・テチョル(43)さんは「20年前に最前線で軍務についていた時も今も、北の景色は常にくすんでいる。可哀想だ」とため息をついた。「今年は米国の空母が何隻も来るなど、戦争の脅威を感じた。来年は『見せかけの平和』が変化する何かのきっかけが起きてほしい」と語った。
2:「北朝鮮を想う場所」臨津閣
烏頭山を離れ、左手に臨津江(イムジンガン)を見ながら少しばかり走ると、臨津閣が現れる。大きな敷地に北朝鮮を望む展望台や、朝鮮戦争当時の汽車などの展示、遊園地までついた「安全保障テーマパーク」だ。
韓国で「安全保障(安保、アンボと略される)」といえば、十中八九、北朝鮮に関わることだ。北朝鮮の動向、韓国に対する確固とした国家観、朝鮮戦争の知識など様々な内容を含む「重い」言葉として使われる。
見どころの多い場所だけあって、訪問客も多い。みな、どんな想いでこの地を訪れているのだろうか。
京畿道(キョンギド)の北側にあり、北朝鮮とも遠くない揚州(ヤンジュ)市から訪れたチョン・ギョンファさん(61)は「楊州に住んでいると『戦争が起こるかも』と思うこともあり、怖い一年だった」と今年を振り返った。さらに「同族でいがみあって、悲しい。亡命兵士の腹から寄生虫が出たというニュースは衝撃だった。金正恩は国民をまともに食べさせるべきだ」と語った。
ソウル郊外に住むヤン・スンモさん(62)は「時たまここを訪れる」と前置きした上で「今年は色々あったが、いかなる場合もなし崩し的に戦争を起こしてはならない」と述べた。さらに「力の優位が大前提。北に引きずり回される平和ではなく、力で維持される平和がいる。今後3年が統一のカギ。北朝鮮がこのまま長く保つとは思えない」と力を込めた。
特別な事情を持った人もいた。ソウルから来たキム・ヒョンヒさん(57)は、娘たちと共に臨津閣を訪れた。「息子が今日、臨津閣に近い軍隊(第一師団)に入隊した。最前線を見たくなり、息子を送った足でここに来た」と話した。「息子のことが心配。とにかく南北関係が良くなってほしい」と語り、目を細めて軍事境界線の方を眺めた。
外国人の姿もあった。ドイツ南西部のシュツットガルト近郊に暮らすシルケさん(34)は、韓国人の友人とともに臨津閣を訪れた。「核武装を進める北朝鮮のニュースはヨーロッパでも毎日流れている。どんな国なのか、実際に目で見てみたかった」と動機を明かした。さらに「平和が一番大切。長い目で見れば統一は一つの選択肢だと思う」と話した。
3:「開城工業団地を臨む」都羅山展望台
北朝鮮が早朝に新型弾道ミサイル「火星15」の発射実験を行った11月29日、臨津閣にふたたび向かった。
ここを起点とする安保観光ツアーに参加するためだ。バスに乗り換えるとほぼ満席だ。運転手に聞くと「夏に客足は減ったが、最近は元に戻った」とのことだった。
ツアー内容は、北朝鮮が韓国へと隠れて侵攻するために掘った「第三地下トンネル」、北側を一望できる都羅山(トラサン)展望台、南北を結ぶ鉄道駅などで構成される。3時間ほどの短いコースだが見応えはある。
都羅山(トラサン)展望台からは、開城(ケソン)工業団地が一望できた。
「南北共同の発展」を掲げ、韓国側が全費用を負担し建設された同工団は、2004年12月の生産開始以降、南北関係の浮沈にも関わらず維持されてきた。
だが、昨年1月の第4次核実験を受け、当時の朴槿恵(パク・クネ)前政権が全面中止を北に通告して以来、交流は途絶えた。
展望台で小さな売店を営むキムさん(仮名、50代女性)によると、この日の人出は「少ない方」。すかさず「ミサイル発射のためか」と聞くと「冬はもともと少ない。今年(ミサイルは)何度もあったが、年間を通じて特に減ったとは思わない」と返ってきた。
4:「北朝鮮兵士亡命」の緊張今も 板門店
12月6日、国連軍が行う外国プレス向けのツアーで、板門店に向かった。民統線の内部に入る橋を自家用車で越え、案内車に従い国道1号をゆっくりと北へ進む。15分ほどで、韓国軍と米軍が合同で運営するキャンプ・ボニファスだ。バスに乗り換え少し行くと、いよいよ板門店のあるJSAに到着する。
JSA(共同警備区域、Joint Security Area)とは、朝鮮戦争を戦った韓国・国連軍と中国・北朝鮮軍が共同で管理する区域のことだ。この中心に会談を行う小屋・板門店が位置している。
24歳の北朝鮮兵士オ・チョンソンの亡命事件からまだ一か月も経っておらず、一帯には緊張感が漂っていた。亡命経路も生々しく確認することができた。無防備で数十発の銃撃さらされても一命を取り留めたことは奇跡という他にない。
<筆者撮影 板門店現地レポート、2017年12月6日>
キャンプ・ボニファスに戻り、話し込んでいた女性ガイド3人に日本語メディアであることを明かしつつ、今年、板門店を訪れた人々の傾向について尋ねた。
すると真っ先に手前の女性が答えた。「日本人が一番、板門店は危ないと思っているようだ。何かあると、ツアー客から『大丈夫なのか』という確認電話が多い。日本人が一番敏感に情勢に反応する」。
女性はキム・ジュオク氏、日本語ガイドだという。
筆者が「なぜだと思うか?」と尋ねると「私も気になって日本のニュースを見たら、メディアが脅威を煽るような報道をしていることが分かった。日本の報道の仕方は深刻だ。視聴者がああいうものを求めているのか?」と矢継ぎ早に逆取材された。
なお、欧米や中国圏からの訪問者は「軽い気持ちで板門店に来る」と他の2人のガイドは口を揃えた。
5:「朝鮮半島のヘソ」 鉄原郡を訪れた脱北者
続いて向かったのは、江原道(カンウォンド)鉄原(チョロン)郡。ソウルから北東に約110キロ。自家用車で2時間ほどの道のりだ。
日本人には馴染みの薄い同郡は、朝鮮半島の中央に位置する交通の要衝だ。3億坪といわれる大平野を擁し、過去、日本の植民地時代には現在よりも多い約8万人が住んでいた記録がある。
その後、1945年に日本が戦争に敗れ、朝鮮半島が米ソにより38度線で分割されると、鉄原郡はソ連軍政のものとなった。そして1948年の朝鮮民主義人民共和国(北朝鮮)政府樹立を経て、北の領土として1950年6月25日の朝鮮戦争開戦を迎えた。
筆者らは車を停め、まずはやはり定番の安保観光コースに向かった。北へ向かう鉄道の「終点」白馬高地駅から始まり、やはり北が「南侵」するために掘った「第2地下トンネル」、そして鉄原平和展望台。だが、鉄道駅以外は撮影禁止のため、ここではその姿をお見せできない。
もどかしい気持ちでツアーに興じる中、同行者に北朝鮮のイントネーションで話す年配女性がいることに気が付いた。ツアー終了後に、インタビューを申し込んだ。
女性の名前は、キム・リョニ(61)さん。南北軍事境界線から20キロあまりしか離れていない開城(ケソン)市の出身で、韓国には10年前に来たという。この日は仕事の休みを利用して、はじめて鉄原を訪問した。
展望台や地下トンネルを見学した感想を尋ねると「胸が痛む。統一して欲しいが、できずにもどかしい。北に残してきた3人のきょうだいの事を想った」とため息とともに語った。
「今年、どんな気持ちでニュースを見たか」との問いには「戦争が起きるとは思わない。だが、金正恩が出ているニュースを見ると、自分でも知らないうちに罵倒する言葉を発している」と一転して強い口調で語った。
「高地争奪戦」の舞台としての南北境界
ここで少し、鉄原郡そして東の揚口(ヤング)郡など、中部山岳地帯の戦線で行なわれた「高地争奪戦」について説明したい。
朝鮮戦争は1950年6月25日午前4時、北朝鮮軍の「南侵」により始まった。翌26日に国連は安全保障理事会を開き、米国を中心とする国連軍の介入を決定する。
その後、約1年間、仁川上陸作戦、中国人民志願軍の参戦などを機に戦線は南北を大きく移動する。ソウル市の主人はこの間、南→北→南→北→南と4度も変わった。
だがここから戦線は膠着。世論の悪化や補給の限界に見舞われ、米中は対話による戦争の停止を模索し始める。51年7月には停戦に向けた協議が開城で始まった。
同年10月には板門店に場所を移し、その後約2年間の協議を経て、53年7月27日22時をもって朝鮮戦争は休戦し今に至る。
当時、協議の間にも戦争は続けられた。停戦すると決まっている戦争をなぜ続けたのか。それは「領土の確保」と「停戦協議の主導権あらそい」のためだった。特に周囲を一望でき、戦略的にも価値の高い「高地」は両陣営で取り合いとなった。
<筆者撮影 江原道鉄原郡、所伊山(ソイサン)山頂、2017年12月7日>
「山の形が変わった」白馬高地での激戦
鉄原は最も厳しい戦闘が行なわれた場所だった。中でも鉄原平野を一望できる海抜395メートルの白馬高地をめぐっては、1952年10月に中国軍と韓国・国連軍との間で大激戦が行なわれた。
後に「白馬高地戦闘」と呼ばれるこの戦いでは、10日間で高地の占領者が7度も入れ替わった。約27万発の降り注ぐ砲弾ともに、熾烈な白兵戦が行われた。結果は韓国・国連軍の勝利に終わる。同軍の死者・不明者3,146人、中国側の死者14,389人。
砲弾の雨により山肌が露出し、高地がまるで横たわる白馬のように見えたことから今の名前が付いた。白馬高地を奪われたことを、北朝鮮の指導者・金日成(キムイルソン)は三日三晩悔やんだという。
38度線付近のあらゆる高地で行なわれた激戦により、今の南北境界は決められたと言っても過言ではない。このわずか数キロのために、北朝鮮、中国、韓国、国連軍など10万人以上の若者が命を散らした。
6:「戦車の音に飛び起きた」 労働党舎前の日本人僧
かつて北朝鮮領だった鉄原郡の中心部に建てられていたのが労働党舎だ。今も北朝鮮を指導する「朝鮮労働党」の施設として使われた。
1945年に完成したこの無骨な建物には、朝鮮労働党(この名称は49年以降、元は朝鮮共産党)に反抗的だとされる者や、思想的に韓国寄りのインテリを連行し、地下室で厳しい拷問を加えた歴史が残っている。
筆者が労働党舎を訪れた12月上旬の冬晴れの昼下がり、労働党舎の前に立ち、軽やかな太鼓の音と共に経を読み上げる二人の仏教者がいた。
さっそく声をかけてみると、日本から来た人たちだった。滝本一晃さん(46)は7年前に韓国に移住、4年前からここ鉄原に移り住み、妙静(77)さんと共に毎日欠かさず労働党舎の前で鎮魂の祈りを捧げている。
「この遺構は検問所のすぐ横にあるが、太鼓を打っていて咎められたことは一度もない」と語る滝本さんに祈りを捧げる理由について聞いた。「過去の日本に代わるお詫びや謝罪ではない。未来に向けて、平和のために祈っている」とのことだった。最近では地元民との交流も深まっているという。
滝本さんはまた、今年の鉄原の情勢について「もし戦争になれば鉄原は砲撃で廃墟になると言われている。だが、米朝の緊張が高まっても鉄原の人たちは日頃と変わらぬ生活を送っており緊迫感は感じなかった」と振り返った。
ただ、ヒヤリとしたことも。「春の韓米合同軍事演習の期間に、夜中に大型の戦車が轟音をたてて10台も通り過ぎたときは何か異変が起こったのかと思い、飛び起きたこともあった」という。
7:「宣伝ビラに宣伝放送」 パンチボウルの日常生活
さらに東の揚口(ヤング)郡に向かった。鉄原と同様に北朝鮮と向かい合う地域のため、道すがらたくさんの軍事車輌とすれ違った。あらゆる民統線付近の道で共通して存在する「対戦車防護壁」もあちこちで目にした。
鉄原から揚口までの移動は基本が山道となるが、取材のため、なるべく北寄りのルートを取った。このルートは景色もよく、中間に北朝鮮からの放水に備えた大きなダム(平和のダム)などもあり飽きさせない。
そんな中、山の麓には必ずと言っていいほど「戦跡碑」が建っていた。これは「高地争奪戦」がこの地でもやはり盛んであった証だ。
向かったのは亥安(ヘアン)盆地、通称「パンチボウル(Punch Bowl)」だ。その形がガラス容器に似ていることから、米軍によって名付けられた。
この地をめぐり1951年8月から9月にかけて韓国・国連軍と北朝鮮軍が激突した。韓国・国連軍は自軍の3倍の損害を北朝鮮側に与え勝利した。
民統線内部のこの一帯はまさに最前線だ。付近の交差点では土嚢を積んで作られた射撃台の上に機関銃を据え、厳しい目つきで訓練に望む兵士たちの姿に驚いた。
揚口統一館で働くチェ・ウンスクさん(49歳)は地元出身。「こんなに北朝鮮に近い所に住んで不安はないのか」と聞くと、「今も毎日、北朝鮮からの宣伝放送が聞こえるし宣伝ビラも飛んでくる。しかし緊張は大きくない。その分、軍の部隊も多いので逆に不安はない」と淡々と語った。「客足も落ちていない」という。周囲にいた別の地元民も同意を示していた。
また、「今年になって立派な避難施設が2つ完成した」と明かした。最近になって最も不安を感じた時はいつかとの質問には意外にも、「実際に防空壕に避難した2015年の8月」と答えた。
当時は南北の緊張がピークに達した時期だった。北側が埋設した地雷で南側兵士2名が負傷した。報復に南側が北向けの大型スピーカーによる宣伝放送を再開したところ、北側が敏感に反応。その後、南北で砲弾を打ち合った末、北側が「戦時作戦の開始」まで明言するなど一触即発の危機だった。
最終的に、板門店で南北高官による48時間以上の会談が行われ、危機は回避された。
今年の緊張の方が2年前よりゆるやかであったことが伺えるエピソードといえる。
8:「朝鮮半島の背骨」を越え、北朝鮮出身者たちの村へ
自家用車でさらに東へと向かった。DMZ付近からやや南下して、朝鮮半島を南北に貫く大山系の白頭大幹(ペクトゥテガン)を越え、東海岸へと抜ける。今回は「陳富嶺(チンブリョン)」から束草(ソクチョ)市に立ち寄った。
束草には「失郷民」とその子孫たちが住む「アバイマウル(父の村の意)」がある。
市内の東部の海岸に位置するこの村は朝鮮戦争開戦当時、北朝鮮の土地であった。戦況が二転三転する中、咸鏡道の人々が南下し一時的に定着していたが、53年の停戦協定により束草が韓国領となったため、避難民は戻れずそのまま今も暮らし続けている。文字通り「故郷を失った人々」の村だ。
街で最も古いとされる食堂の一つに入り、女性主人のパク・キョンスクさん(70歳)に話を聞いた。束草から数十キロ離れた北朝鮮・通川(トンチョン)郡出身の義母から学んだ北朝鮮の味をお客さんに提供している。
自身も「失郷民」であるパクさんは、「周囲で北朝鮮を話題にすることが多い」としながら「今年は色々あったが、ずっと不安な気持ちで過ごした訳ではない。不安に思う時は軍人を信じることにしている」と振り返った。
また「南北往来が自由になればよい。おたがい持っているものを分け合い良い暮らしができるはず」としみじみと語った。板門店の脱走兵士については「あの子の北でのつらい生活を想い、非常に胸が傷んだ。銃撃を見ながら、南北はいつまで互いに血を流しながら暮らすのかと考え込んだ」と肩を落とした。
9:「地震の方が怖い」高城統一展望台
今回の取材の最後の目的地は、江原道の高城(コソン)郡。北朝鮮にも同じ名前の郡がある「分断された」土地だ。束草から北に向かう道から右手にずっと深い蒼色をした日本海(東海)が見えた。
目指すは高城統一展望台。束草市から自家用車で1時間弱。快晴に恵まれたためか、北朝鮮が一望できる小高い丘の上の展望台は、たくさんの人出で賑わっていた。
さっそく人々に声をかけた。実家が高城郡にあるという子連れのヨムさん(仮名、30代女性)は「以前よりは恐怖を感じた1年だったように思える。北朝鮮の動向を気にするようになり、ニュースをよく観るようになった。子どものことを考えると北朝鮮は不安」と明かした。
1998年に始まった北朝鮮の金剛山を尋ねる観光旅行は、韓国人の人気を集めた。2008年7月まで約194万人が北朝鮮の地を踏んだ。中断のきっかけは08年7月に、正規ルートを外れた女性観光客を、北朝鮮の兵士が警告無しに射殺したことだった。
また、ソウルから来たというシンさん(仮名、40代男性)は「近くに北朝鮮を見ると統一を強く意識する」としながらも「北の軍事挑発があまりに多いので、緊張しては忘れの繰り返しだ」と頭を掻いた。
高城展望台でお土産店を営むシン・ミョンシンさん(45歳)は「緊張感は例年と変わらない。ただ、ガイドの中には『怖い』という人もいる」と今年を振り返った。客足について聞くと「今年になって日本のお客さんは大きく減った」と明かした。
「今後も続けるつもりか」という問いには「危機感は無いので続ける」としながら「北より地震の方が現実として怖い」と笑った。
京畿道から来たという、カメラ同好会所属のソ・ビョンソンさん(62歳)。「株価も上がり続け、韓国だけ平和なようだ」という筆者の問いかけに苦笑いしながら「確かに、以前ならこういった状況では生活用品の買い占めが起きてもおかしく無かったはずだ。挑発が多いので慣れてしまったのかな」と答えた。
「来年の望みは」という質問には「来年こそは朝鮮半島が安定して欲しい。これこそが皆の願いだろう」と筆者の肩を強く叩いた。
旅の終わりに
民間人統制線内部に住んでいる人々や、DMZを訪れる人々の表情は総じて明るかった。それでも、インタビュー中の表情や口ぶりからは、ほぼ全員が「朝鮮半島の問題は簡単ではない」と受け止めていることが十分にうかがえた。
文在寅(ムン・ジェイン)大統領は今年5月の就任直後から「平和」を連呼してきた。北朝鮮と米国に対し、戦争・攻撃はありえないと正面から反対した。
この背景には、戦争となった時にもっとも被害を受けるのが韓国と北朝鮮であるという簡潔な事実が含まれている。
一方の武力行使はそのまま、軍属・一般人合わせ300万人といわれる死者を出した朝鮮戦争の悲劇の再現となる。さらに今は互いが核兵器を保有している。戦争が再開される場合の被害は計り知れない。
我々は戦争という選択肢をあまりにも軽々しく口にしていないだろうか。この思いが旅の間も今も、頭を離れない。来春、緑づくDMZをふたたび訪れてみたい。(了)
【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】