【戦国こぼれ話】不倫はダメ!純愛を貫いた毛利元就と妻の妙玖とは!?
■今も昔も夫婦仲は重要
昨今、芸能人やスポーツ選手の不倫報道が増えてきた。別に犯罪ではないかもしれないが、気持ちが良いものではないことはたしかである。また、不倫の代償も実に大きい。
戦国時代は本妻のほかに側室が置かれることもあったが、仲睦まじい夫婦関係を築いた武将も少なからずいる。その中から、毛利元就とその妻の妙玖(みょうきゅう)を取り上げることにしよう。
■妙玖とは
明応8年(1499)、妙玖は安芸国の国人である吉川国経の娘として誕生した。国経は安芸国西北部に勢力を持っていたので、同じ一国人領主である毛利元就が吉川家から妻を迎え入れるのは、良好な関係を築くうえで必然の成り行きであったと考えられる。
2人は政略結婚で結ばれたが、妙玖は毛利家中で類稀なる能力を発揮する。まさしく女傑の一人だったと言っても過言ではないだろう。
■妙玖の功績
妙玖の第一の功績は、隆元、元春(のちに吉川家の養子に)、隆景(のちに小早川家の養子に)を産んだことであった。隆元は毛利家当主として跡を継ぎ、元春、隆景は吉川家、小早川家の養子となりながらも、毛利家を支える重要な存在へと成長した。
元春と隆景が毛利本家を支える体制は、後世に「毛利両川体制」と称された。つまり、妙玖は、毛利家が厳しい戦国の世を切り抜ける体制を作ったといえよう。この功績は、何物にも代えがたいものだったと評価できる。
子供の養育・教育という側面においても、妙玖はいかんなく能力を発揮している。元就は生涯にわたって側室を持たず、妙玖に家政全般を任せていた。2人の間の信頼感は、夫婦関係を超えるものがあった。
■妙玖の死
このように毛利家発展に尽くした妙玖であったが、天文14年(1545)に病没した。元就が嘆き悲しんだことは、想像するに余りある。なお、妙玖とは「妙玖寺殿成室玖公大姉」という法名の一部だ。
元就は妙玖の死後、手紙に何度も妙玖のことを書状に書き綴っている。最愛の妻を失ったのは、痛恨の極みだったに違いない。
■元就の教え
俗に「三矢の訓」と言われ、元就が兄弟一人ひとりを矢に例え、3本が束になった矢なら折れにくいということから、兄弟3人の強い結束を求めたという逸話がある。元就の教えにより、3人の兄弟間の協力関係は揺るぎないものになった。
こうした話題が元就の口から出るとき、常にあらわれるのが妙玖であった。兄弟の強い団結こそが妙玖への供養となり、亡くなった妙玖もそれを願っていると説いた。
万が一、兄弟間が不和になれば、妙玖は悲しむと常に説いたのである。元就が妙玖を愛していたがゆえに、兄弟の結束を呼びかけたのである。
■真実の愛
のちに元就は長男の隆元に手紙を送り、毎日妙玖のことばかり考えていること、妙玖が亡くなったので話し相手もいないことを切々と訴えている。元就は居城の郡山城(広島県安芸高田市)に「妙玖庵」を造作し、自らはもちろんのこと3兄弟にも念仏を唱えさせた。
隆元は早朝に起床して、毎日念仏を100回唱えたという。政略結婚が多い時代にあって、元就は妙玖と真実の愛情を育んだのである。
現代人も元就や妙玖を見習って、仲良く過ごすべきだろう。