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なぜ上杉家の家臣だった藤田信吉は、徳川家康のもとに逃げ込んだのか

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
鶴ヶ城。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「どうする家康」では、そろそろ関ヶ原の戦いに突入しそうである。その原因となったのは、上杉景勝に掛けられた謀反の疑いと家臣の藤田信吉の出奔だった。この点について、検討しておこう。

 慶長3年(1598)1月、豊臣秀吉は景勝に会津(福島県会津若松市)への国替えを命じた。景勝の移封は、東北諸大名に対する押さえを期待していたと考えられる。その2年後の慶長5年(1600)、景勝は会津に帰国すると、領国内の整備を急ピッチで行ったのである。

 同年2月、景勝は配下の直江兼続に神指城(福島県会津若松市)の築城を命じると、兼続は弟の大国実頼を作事奉行に任じ、3月から大規模な工事を開始した(『会津旧事雑考』)。

 工事には、約8万人(あるいは約12万人)の人々が会津・仙道・佐渡・庄内・長井などの広い地域から動員されたといわれている。約8万人(あるいは約12万人)という数はにわかに信じ難いが、それほどの大工事だったのだろう。

 築城に際しては、神指村など13ヵ所の村々が強制的に移転されることになっており、新しく城下町を作るという壮大な計画だった(「塔寺八幡宮長帳」)。

 この計画は領内整備の一環だったが、家康の危機感を煽ったようである。築城と城下町の規模を拡大することは、家康に戦争準備と受け取られた可能性がある。

 さらに景勝を窮地に陥れたのは、配下の藤田信吉が出奔したことである。慶長5年(1600)1月、信吉は上杉家の使者として、家康に年賀の祝詞を述べるため上洛した。その際、家康は信吉に刀や銀を与えた。

 ところが、信吉が会津に帰国すると、家康から刀などを与えられたことが上杉家で問題となった。同年3月、ついに信吉は上杉家から出奔し、江戸で徳川秀忠と面会すると、景勝に謀叛の意があると報告した。信吉の報告は、のちの会津征討の原因になったという。

 光成準治氏の研究によると、信吉が上杉家を出奔した理由は、①景勝の会津移封後、信吉は津川(新潟県阿賀町)という辺境の地に追いやられてしまったこと、②会津移封後、兼続の執政体制が強化されたこと、③慶長2年(1597)の家中改易後、信吉と友好関係にあった国人らは、景勝・兼続体制に従属させられたこと、があるという。

 信吉は自分の力量を生かせる主人を求め、徳川家を頼ったという。信吉は、もともと甲斐武田氏の配下だった。天正10年(1582)3月に武田氏が滅亡すると、上杉家に仕えたのである。

 信吉は上杉家に重用されていたとはいえ、しょせんは新参の家臣にすぎなかった。家康との面会であらぬ嫌疑を掛けられ、古参家臣との軋轢もあったと考えられるので、居づらくなったと推測される。

 ただし、信吉が家康に仕えるに際しては、さすがに「手ぶら」では具合が悪かった。「景勝に謀叛の意あり」という密告こそが、家康への良い「手土産」になったのだろう。

主要参考文献

光成準治『関ヶ原前夜 西軍大名たちの戦い』(角川ソフィア文庫、2018年)

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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