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織田信長は本気で大坂に居城を移転させようと構想していたのか?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 我が国では東京一極集中を避けようとする動きがあったが、なかなか進まないのが現状である。かつて織田信長は居城を大坂に移す考えがあったというが、それは本当だったのか検討することにしたい。

 尾張に本拠を置いていた織田信長は、敵を倒すたびに居城を移転した。那古野城(名古屋市中区)を振り出しにして、清洲城(愛知県清須市)、小牧山城(同小牧市)、岐阜城(岐阜市)へ移していった。

 岐阜城のあとに移ったのが、安土城(滋賀県近江八幡市)である。残念ながら安土城は、本能寺の変後に焼失してしまったが、近世城郭の先駆けとなる記念碑的な城だったといわれている。

 しかし、信長の意欲は衰えることなく、丹羽長秀と津田信澄に新しい城の普請奉行を命じたという。新しく城を築く場所は、長らく抗争を続けた大坂本願寺の跡地(大阪市中央区)だった。

 大坂本願寺は一向宗の拠点であり、石垣などの防御施設が優れていた。やがて職人や商人が数多く移り住むようになり、寺内町も形成されたのである。

 大坂本願寺と寺内町は、信長に降伏した直後に焼失していた。とはいえ、眼前には大阪湾が広がっており、しかも木津川の河川交通が至便だった。地形は、大規模な城郭を築くのに適していた。

 むろん、理由はそれだけではない。当時の状況を考慮すると、信長は中国計略(毛利氏征伐)と四国征伐(長宗我部征伐)に注力していたので、大坂の地は絶好のロケーションにあったといえよう。

 信長がそのようなチャンスを見逃すはずがなかった。長秀と信澄は築城工事を進め、天正10年(1582)6月の本能寺の変の直前頃には、ほぼ工事が完了していたといわれている。

 しかし、本能寺の変で信長は明智光秀に殺されたので、計画は頓挫した。信澄は光秀の娘婿だったので、殺されてしまった。結局、信長が大坂に移る計画は、幻に終わったのである。

 信長の後継者になった羽柴(豊臣)秀吉は、信長と同様に大坂に目をつけた。天正11年(1583)以降、秀吉は大坂城の築城に着手したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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