大坂城落城後の地獄絵図。逃げ惑う人々は捕らえられ、人買い商人に売られた
現在でも世界的に見れば、人身売買が行われているという。我が国でも戦争が起こると、民衆が捕らわれの身となり、人買い商人に売られることもあった。以下、その例を挙げることにしよう。
大坂城落城後は豊臣方から多数の戦死者が出て、まさしく地獄絵図だった。『慶元イギリス書翰』には戦死者が12万人、『日本切支丹宗門史』には同じく10万人という考えられないくらいの膨大な戦死者数が記されている。
一方で、『長沢聞書』には、豊臣方の戦死者の数が1万8350人と書かれているが、先の両書と比較して、かなり数が少ない。
豊臣方の戦死者数を正確に把握するのは困難だが、いずれにしても信じ難い死者数だったのは確かなことである。それらの数値は、しっかり数えたものではなく、あくまで見た目の概算に過ぎない。
豊臣方の落人は徳川方から追われる身となり、実に悲惨だった。捕らえられると、殺されることもあった。また、落人は武士身分だった牢人だけでなく、大坂城内に籠もった普通の人々も含まれていた。
大坂の陣に出陣した徳川方の大久保忠教(彦左衛門)は、自著の『三河物語』の中で、落城後に人々が捕らえられた様子を記している。大坂城に籠城していたが生き残った者は、具足を脱ぎ捨て裸になり、女性とともに逃げ出したこと、また多くの女性は全国各地に売られてしまったと書かれている。
大坂城に籠もった男性が具足を脱いで、裸になって女性と逃げたのは、豊臣方の将兵だったことを隠すためと考えられる。女性というのは、自分の妻だったかもしれない。
牢人が大坂城に籠もる際、家族を連れて入城することは、決して珍しいことではなかった。同時に、大坂城の惣構の中には、普通の人々も住んでいたのである。しかし、大坂城の落城後、彼らは逃げ出さなければならなかったのである。
大阪城天守閣が所蔵する『大坂夏の陣図屏風』には、逃げ惑う人々の姿や捕らえられた女性の姿が描かれている。将兵による略奪行為は、「乱取り」と称された。
徳川方に捕らえられた女性は、人買い商人によって各地に売られた。大坂には人買い商人が暗躍しており、徳川方の将兵から捕らえた女性を買い取り、全国各地に転売したのである。『義演准后日記』にも、人買い商人のことが記されている。
人買い商人は買い取った人々を、海外に転売することがあった。禁教令の発布後だったので、海外との表立った交易は認められなかったが、まだ転売のルートは残されていたのだろう。
大坂の陣で豊臣氏は滅亡し、豊臣秀頼と淀殿は自害して果てたが、残された牢人や普通の人々にも過酷な運命が待ち構えていたのである。