【日本酒の歴史】上方のお酒はついに江戸へ!江戸時代の人々はどのようなお酒を飲んでいたのか
ああ、伊丹酒や池田酒の栄華は、まさに江戸の酒豪たちの羨望の的でした。
「剣菱」などの銘柄は将軍の膳にも並び、その芳醇な香りと味わいが、他の地方の酒とは一線を画す存在として評価されていたのです。
しかし、そんな華やかな酒造地にも、新たな波が押し寄せてきます。
神戸や西宮の「灘」が、じわりじわりと伊丹酒の背後に忍び寄り、まるで獅子が眠りから目覚めるようにその勢いを増していきます。
いつしか灘は銘醸地としての名を世に轟かせ、後に「灘五郷」と称されるようになるのでした。
こうした摂泉十二郷の酒は、天下の台所・大坂から江戸へと送られ、「下り酒」と呼ばれて、酒好きたちの喉を潤しました。
江戸に集まった酒は、幕府の手で「江戸入津」として厳しく管理され、江戸の経済に一役買うこととなります。
しかし、酒造りは一筋縄ではいきません。
天明の大飢饉や水害で米の値が跳ね上がると、幕府は酒造の制限令を次々に出し、醸造に用いる米を取り立て、酒株制度まで持ち出して酒屋たちを悩ませました。
ところが、時の流れは新たな希望も運んできます。
1837年、山邑太左衛門が「宮水」を発見し、灘の地に黄金の水が湧き出すと、灘は再び注目を浴び、伊丹の影響は海の彼方へと押しやられていったのです。
この神秘の水が、まさに江戸の酒場に新しい風を吹き込み、日本酒の運命を灘へと移し替えたのでした。
参考文献
坂口謹一郎(監修)(2000)『日本の酒の歴史』(復刻第1刷)研成社