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樋口尚文の千夜千本 第50夜「女が眠る時」(ウェイン・ワン監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
(写真:毎日新聞デジタル)

知的なたくらみが張りめぐらされた新時代のヌーヴォー・ロマン

あの一時代ひじょうにシネフィルの人気を集めた『SMOKE』のウェイン・ワン監督の新作がビートたけしを主演に伊豆で撮影され、東映で公開されるという報せを最初に聞いた時は、いったい何事かと興味津々であった。それはいったいどんな映画であるのか誰か関係者に聞いてみようかと思っていた矢先、よりによってウェイン・ワンその人に会ってほしいと旧知の木藤プロデューサーから頼まれた。実は私は『SMOKE』以前の初の長篇劇映画『スラムダンス』を公開しょっぱなに観て凄く気に入って、仕事でロスに行った時にご当地のシネフィルの若者が「ウェイン・ワンという”新人”の『スラムダンス』が好きだ」というので握手した、という麗しき記憶もあるので、一も二もなくご指定の場所に赴いた。

ところがその場所はなんと私がよく仕事の合間につかっている有楽町のレトロモダンな喫茶店で、このいつもSMOKYなひとときに癒されているサラリーマンの聖地にウェイン・ワンがいるのだろうかといくぶん信じがたい気持ちで、すっかりなじんだいつもの店に入ると、奥まった席に本当にウェイン・ワンがいた。『SMOKE』の頃の野心的なアーティストふうのポートレートの印象に比べると、解脱した高僧のごとき風貌になったウェインは、とても物静かであたたかな笑顔をもって迎えてくれた。

私がウェインと会うことを求められた理由は、彼がくだんの新作『女が眠る時』を撮るにあたって、映画表現における日本的なエロティシズムの発露について知りたいということであった。そんな名誉な特命を受けて、私は大島渚、増村保造から神代辰巳、田中登、曾根中生らに至る「成人映画」の性表現の系譜、ひいては撮影所の斜陽からピンク映画、ATG、日活ロマンポルノなどに至る性描写の萌芽と転回についてレクチャーしつつ、会うたびに『痴人の愛』から『(秘)色情めす市場』などのDVDを渡していた。ある日などは、神代辰巳『赫い髪の女』を以って行ったら、ウェインから自作の『赤い部屋の恋人』のDVDをプレゼントされる、という洒落たひと幕もあった。

さてそんな出会いを経て、私はぜひウェインの演出を直にぜひ見たいと思い、撮影初日にエキストラ兼務で伊豆の波打ち際のホテルに赴いた。日本式のお祓いにも参加して、私はクランクインの瞬間を拝ませて頂いたが、それはもう監督の人柄を映してごく静かな出だしであり、全員が日本人スタッフであるにもかかわらず、特段コミュニケーションの齟齬はなく粛々と撮影は進行していった。もっとも数週間の撮影のなかで、ウェイン独特のこだわりはじわじわと露わになっていったようだが、出来上がった作品もまさにそういう雰囲気のものであった。ウェインの媚薬のごとき毒は、ごく緩慢にからだに回ってくるのである。

雨が多かった初夏の撮影から半年を経て、待ちきれない私は冬の試写室でスタッフ各位とともに最初の初号試写で完成品を観た。ここまでの経緯はあれど贔屓目どころかかなり客観的に観ていたのだが、これはやはりさすがウェイン・ワンと言うべきか、今時なかなか出会えないタイプの、知的なたくらみに満ちた意欲作で、従来のウェイン・ワン作品のさりげない人間洞察のカラーを期待している向きは意表を突かれることだろう。終わった後で会ったウェインが「これは今までの自分の作風には無い試みなので、自分でも説明できないところがある」と言っていたが、これまでは設定は違えどもニューヨーカーの自分探し的な世界を反復していたウェインにして、本作は今や出会い難い懐かしく麗しくヌーヴォー・ロマンの薫り漂う「新境地」ではないか。

そもそもはスペイン人作家の原作なのだが、作家の清水健二(西島秀俊)が休暇をとって海に面したリゾートホテルに編集者の妻・綾(小山田サユリ)と逗留する5日間の妖しい物語である。健二はプールサイドで謎の男・佐原(ビートたけし)と美少女・美樹(忽那汐里)の不思議なカップルを見かけて、以後その二人のことが気になって仕方がない。佐原は健二を部屋に導き入れ、彼は夜な夜な眠れる美樹の姿をビデオで撮影し、その映像のいいところをストックし続けている・・・と告白する。健二はその佐原の異常な性癖から透ける、彼の怪物的な横顔を畏怖し、彼がいったい何者なのか、美樹とはどんな関係なのか、という疑問にとり憑かれる。

健二が佐原と美樹を見つけて、佐原の性癖を知るまではほんの2日の出来事で、まずは内懐で勿体つけて妖しげなムードを醸すでもなく、物語は滑らかに進行する。その過程で、われわれは白昼のプールサイドで美樹の恥毛を抜き、ベッドではうなじにカミソリ(これが以後さまざまなイメージ喚起の鍵になる)をあてて剃毛しては、その昏睡したさまを撮り続ける佐原の変態性を、健二の当惑とシンクロしながら知ってゆくことになる。その十年ごしの眠れる美女の映像を見て、「どれも同じじゃないですか」ともっともな感想を抱く健二に、佐原は「ずっと一緒にいなきゃわからない」のであって「いつかこの子は自分を裏切るので、その最後の姿までを撮っておきたい」と力説する。だが、ここで感ずるのはウェイン・ワンはがこの佐原という変態について、われわれの共感をとりつける素振りを全く見せないことだ。

一方で、健二が好奇心から佐原と美樹を尾行してホテルの周りのしがない海辺の町をさまようあたりの雰囲気には、思わず引き込まれる。遠くに観覧車をのぞむひなびた町の光景、そしてそこに忽然と現れる居酒屋のような民宿のような奇妙な店(この「イイヅカ」という店とそこを営むリリー・フランキー扮する飯塚のイメージは本作の白眉である)、「ここの遊園地は昔は大賑わいだったけど今はだれも来やしない」といった台詞などが醸す雰囲気は、そこになまこ壁が映っているから下田あたりだと感づきつつも、かぐわしきアンチ・ロマンの香りが充満するのであった。健二がこの店を訪れるたびに飯塚がひとりごちる饒舌の内容が常にケッサクで、ストッキングとタイツの違い、ライオンや三毛猫の雌雄の縁・・・などお題が唐突で本当におかしいのだが、これもまなんだか暗示的で、健二はここでも翻弄されまくる。

そんなこんなの予兆の2日を経て、3日目はやにわに物語のエンジンがかかり出す。佐原カップルは健二夫妻の間に闖入を開始し、一方で健二もこの日を境に現実に夢幻的な瞬間が割り込んでくる。海にのぞんだ窓辺でようやく執筆の衝動に駆りたてられ始めた健二は、下着姿の美樹が自室に侵入してくるイメージを妄想する。そのマジックアワーのカーテンの端、光と闇の接しあうあわいに舞い込んだ忽那汐里の、救いを求めるようでそれを翻す曖昧なエロスの表情が素晴らしい。

こうして着々と蠱惑的な美樹にとらえられてゆく健二は、プールサイドで佐原から「あの子はもう自分を裏切っているのかもしれないが、そうなったら殺すしかない」と告白される。美樹への思いが強くなっている健二は憤り、「自分が死ぬことは考えないのか」とまたしてももっともな反論をぶつける。対する佐原は「君にはまだわからない」ともはや駄々っ子のようにプールの水を足でじゃぶじゃぶやるのだが、ここで観客はいよいよ健二と気持ちをひとつにして、この怪人物は手に負えないと思うことだろう。だが、くだんの通り、この佐原の扱いもウェイン・ワンは迷いなしでやっている感ありだ。

こうしてわれわれは「DAY4」にして漸くにして確信するのだが、これは重鎮のビートたけしを主役として動員しながら、実は西島秀俊の極めて合理的で率直な作家・健二(けっこうな賞を受賞し将来を嘱望された作家なのに、どこか常識的でサラリーマンを始めようと思っている・・・という彼の設定はなるほどである)の理性に揺さぶりをかけることが主題であって、たけし扮する佐原の存在は圧倒的な印象ながらあくまでその「罠」のひとつなのである。そのウェイン・ワンの狙いを汲んで、ビートたけしが徹底した理解不能な異物を受けて立っているところが、本作のひじょうに贅沢なところだろう。

さて、そんな「DAY4」はまさに序破急の「急」で、描かれる時間のボリュームもそれまでの均衡を逸して肥大し、健二が佐原の部屋にストーカーまがいに侵入を図ったり、美樹の脱走につきあわされたり、さらには妻の日々の行状への不審が高じて佐原との疑惑(!)が浮上したり・・・と、次々と翻弄されながら、例のカミソリのイメージが光る悪夢にまで幻惑されてしまう。一転、激しい雨風に見舞われるこの「DAY4」の描写は(『情事』のモニカ・ビッティのように断崖に佇立する忽那汐里よ!)、人間関係の反転が続くミステリーの愉しみと現実と夢の審級がわからなくなる映画的な罠とが一気に開花して、かつてないウェイン・ワンの創意が嬉しい。

しかしながら、一見静けさを取り戻した5日目、物語はラストに向けてさらに反転を続け、当初は最も影が薄かった健二の妻・綾の存在がやおらせりあがってきて、そのキーイメージとして今度は帽子が重要な意味を持つ。ここいらはもう観てのお楽しみとすべきだろうが、とはいえウェイン・ワンは決定的な秘密の開示という野暮なことはせず、この重層的な物語は、いくつかの結末を推理することができるだろう。

ビートたけしは、まさにただ首にあてるだけでギロチンの悪夢を召喚してしまう無表情なカミソリのような人物像を好演し、西島秀俊もアミール・ナデリ『CUT』などの国際的な作家の作品でも異彩を放っていたが、本作は近年突出した当たり役ではないだろうか。忽那汐里も見事に監督の思い描く曖昧に揺れる少女像を具現化し、小山田サユリも久々の好演で健在ぶりを見せている。

それにしても、劇中のリリー・フランキー扮する飯塚の台詞を借りれば、本作で男女の性愛の謎が蠱惑的な曖昧さをもって寸止めされ続ける雰囲気は、まさにタイツやストッキングが最も男を魅了する「50デニール」前後の感覚ではなかろうか。その飯塚にいわゆる「どうして?」と思いつつも「でもなんかわかるよね」という感じが充満する本作は、名匠ののたくらみが張りめぐらされたオトナの作品である。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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