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名前が複数知られており、ややこしくなった戦国武将3選

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
三光神社、真田信繁像。(写真:イメージマート)

 今でも、名前の漢字を間違えられたりして、不快になる人もいるだろう。戦国時代の武将の場合は、名前が複数伝わっており、誤ったほうで知られる例がある。そのうち、3人の例を取り上げておこう。

◎織田信勝(達成、信成)

 織田信勝は信長の弟で、勘十郎ともいわれている。織田家の系図を見ると、勘十郎の実名は信行と書かれているので、長らく信行で通ってきた。しかし、信行と署名された発給文書は、1点も存在しないのである。そこで、勘十郎で検索すると、新たな事実が浮上した。

 勘十郎信勝、勘十郎達成と署名された文書が発見されたので、信行は誤りで、信勝、達成の名が正しいと指摘されることになった。さらに、勘十郎は武蔵守を官途としていたので、武蔵守信成も同一人物であることがわかった。つまり、信行は間違いで、信勝、達成、信成が正しいことになる。

◎林秀貞

 林秀貞は織田信長の家臣で、官途は佐渡守である。彼は通勝と称されていたが、それは誤りである。『織田真紀』には、松永久秀の家臣として林若狭守通勝という人物があらわれる。この人物と林秀貞が混同し、誤って伝わってしまったのである。

 そもそも『寛政重修諸家譜』に林秀貞と書かれており、『言継卿記』にも秀貞と記されている。文書にも秀貞とあるので、最初は正しく伝わっていたのである。なお、『越智姓系図』は秀貞を通勝と誤っているほか、弟の名を通具、父の名を通安とするなど、さらにミスを重ねている。

◎真田信繁

 真田信繁は昌幸の子であり、源次郎、佐衛門佐としても知られている。信繁は小説のほか、テレビドラマや映画でよく取り上げられ、幸村の名で通っている。しかし、信繁の発給文書を検索しても、幸村と署名した文書は1点もないのである。

 江戸時代中期に成立した『真田三代記』では、なぜか幸村と書かれている。もともとは信繁であり、発給文書にも信繁と署名されているが、いつの間にか幸村が用いられるようになった。幸村が講談などで使われるようになり、気が付くと定着していたのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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