【光る君へ】藤原伊周は、本当に藤原道長を大元帥法で呪詛したのか?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原伊周が藤原道長を大元帥法(だいげんのほう:帥は読まない)で呪詛したことが問題とされた。そもそも大元帥法はどういうものなのかも含めて、この件を考えてみよう。
長徳2年(996)1月、藤原伊周・隆家兄弟が花山法皇を待ち伏せしたとき、従者が矢を放った。その矢は花山法皇の衣の袖を射抜き、大問題になった。ことが重大なだけに、一条天皇は厳しく対処すべく、検非違使別当(長官)の藤原実資に捜査を命じたのである。
捜査の結果、伊周の悪事が次々と露見した。たとえば、藤原道長の姉で、一条天皇の母の詮子は病に伏せて、なかなか回復しなかった。
そこで、邸宅をくまなく調べてみると、呪詛したと思われる「人の厭物」が発見されたのである。犯人が伊周であると断定はしていないものの、詮子が道長を道兼亡き後の後継者に推したので、強く疑われたのである。
もう一つは、伊周が大元帥法を行い、道長を呪詛したという件である。法琳寺とは、かつて京都市伏見区小栗栖北谷・丸山町付近にあった寺院で、室町時代中期から衰退し、やがて廃寺になった。常暁(?~866)が大元帥法を修法する道場として知られ、御願寺になった真言宗寺院でもある。
大元帥法は、常暁が大元帥明王の像が法琳寺の閼伽井の井戸にあらわれたとき、その写しを持って唐に渡り、現地で鎮護国家の法を授けられ、日本に持ち帰ったものである。その効力は、国家安穏や怨敵を調伏することにあったという。
大元帥法は、まず箱に天皇の御衣を入れて緋の綱で結ぶ。それから蔵人が箱に封をし、治部省でお祈りをしたあと、結願の日に返却するものである。これは毎年の恒例であったが、敵国の降伏を祈願すべく、臨時に執り行うこともあった。天皇の御衣を用いるのだから、朝廷以外で行うことはご法度だった。
『日本紀略』によると、伊周が大元帥法を行ったと密告したのは法琳寺である。歴史物語『栄花物語』には、伊周が秘密裏に大元帥法を行ったと書かれているが、道長を呪詛したとは書かれていない。道長を呪詛したと書いているのは、13世紀初頭に成立した『覚禅抄』である。
したがって、伊周が大元帥法を無断で執り行ったことは罪に問われても仕方がないが、本当に道長を呪詛したのか否かは、検討の余地があるだろう。『日本紀略』には伊周の罪状として、大元帥法の件を挙げていない。