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【光る君へ】長徳の変で一条天皇の中宮・定子の立場がまずくなり、出家した理由

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。(写真:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原伊周・隆家兄弟に厳罰が科されることになり、2人の妹で一条天皇の中宮の定子が突如として髪を切った。なぜ、そのようなことになったのか、考えることにしよう。

 長徳2年(996)1月、花山法皇の一行を藤原伊周・隆家兄弟が待ち伏せしたとき、従者が矢を射た。その矢は花山法皇の衣の袖を射抜いたので、一条天皇は伊周・隆家兄弟に厳罰を科そうとした。その際、捜査を担当したのは、検非違使の別当(長官)の藤原実資である。

 実資が調べてみると、伊周が詮子(藤原道長の姉で、一条天皇の母)を呪詛して病に陥れたこと、無断で太元師法を行い道長を呪詛したこと、などの悪事が次々と判明した。

 こうした悪事が明らかになったので、伊周・隆家兄弟はたちまち窮地に陥った。しかし、窮地に陥ったのは2人だけでなく、妹の定子(一条天皇の中宮)も立場的にまずくなったのである。

 一条天皇は定子をとても愛していたので、伊周・隆家兄弟を処分する際、大いに悩んだという。しかし、ここで甘い処分で済ませてしまうと、一条天皇としても立場がまずくなってしまう。

 一条天皇が伊周・隆家兄弟の処分を決定した日、定子は内裏を出ることになっていたが、それは急に中止になった。その辺りの事情は不明である。同年3月、定子は実家に戻ったのである。その間の2月、定子は職御曹司に移り、女房らとともに『宇津保物語』の批評に興じていたという。

 同年4月、一条天皇が定子がいる二条北宮に勅使を派遣し、伊周・隆家兄弟を流罪に処することを伝えた。しかし、伊周は重病と称して、姿をあらわさなかった。伊周は定子と手を取り合い、決して離れようとしなかったという。その挙句、伊周は急に姿を隠したのである。

 同年5月、一条天皇は検非違使に伊周の邸宅の探索を命じた。放免(検非違使庁の最下層の役人)は天井や壁をはがすだけでなく、定子の寝室すら調べたという。その結果、隆家を発見したので、即座に配所へと送られた。あまりのことに定子は絶望し、突然、髪を切ったのである。

 この場合の髪を切ったというのは、出家のことである。当時、定子は一条天皇の子を身籠っていたが、兄2人が流罪となったので、発作的に出家したということになろう。一条天皇は自分が定子を追い詰めたからだと悔やんだが、もはや手遅れだったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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