異国に散った日本馬が、世界のホースマンたちに残したモノの物語
南半球最大のレースで1番人気に推された日本馬
11月の第一火曜日。
オーストラリアでは南半球最大のレース、メルボルンCが行なわれる。開催地となるフレミントン競馬場のあるヴィクトリア州では“メルボルンCデー”という休日になるほどの一大イベントで、他州でも登校日の学校では授業中に、仕事のある人もその手を休めてテレビ観戦をするため、“国の動きを止めるレース”と呼ばれている。
そんなビッグレースで過去に1番人気に推された日本馬がいた。
しかし、結果は残念ながらハッピーエンドとはならなかった。それどころか考え得る最悪の結果となってしまう。皆が期待を胸に彼の走りを見守っていたその時、正に砂時計の砂は刻一刻と落ち切ろうとしていた。
そんなアドマイヤラクティと、同馬に関わった人たちの物語をお届けしよう。
大一番へ向け、2カ月以上の長旅に
2013年にダイヤモンドSを勝つなど長距離戦で実績を積み重ねたアドマイヤラクティが、オーストラリアへ渡ったのは2014年。目標は3200メートルのメルボルンCだった。
この年のメルボルンCは11月4日。その約2カ月前の9月3日には、検疫のため東京競馬場に入った。
付き添ったのは同馬の所属する梅田智之厩舎の古味裕之持ち乗り調教助手と鹿戸清史調教助手。当時、古味は31歳、鹿戸は43歳だった。
かの地へ旅立ったのは9月19日。帯同馬のアドマイヤイナズマと矢作芳人厩舎のバンデが呉越同舟で決戦の地に入った。
当時の検疫の厳しさに加え、現地ではメルボルンCの前に、2400メートルのコーフィールドCをひと叩きするため、これだけ早い出国となった。
遠い異国で戦友に捧げる自身初のG1制覇!!
そのコーフィールドCを前に、アクシデントが起きた。現地では検疫を受けながらウェルビー競馬場で調教が積まれたが、芝コースしかないためバンデが故障を発症。リタイアに追い込まれた(この件を受け、翌年からポリトラックコースができた)。目標へ向け懸命かつ慎重にやっていたことを目の前でみてきただけに、アドマイヤラクティ陣営も心を痛めた。
そんな辛い思いを吹き飛ばしてくれたのは誰あろうアドマイヤラクティだった。
10月18日に行なわれたコーフィールドC。前哨戦といえ、陣営は万全を期していた。イレ込む可能性の高いアドマイヤラクティのため、事前に競馬場を視察。他馬や人が往来しない位置の馬房を選択した。また、蹴っても怪我をしないように壁にゴムを張り巡らせた。
こういった姿勢がアドマイヤラクティに力を発揮させた。58キロのトップハンデをモノともせず、ザック・パートンにいざなわれ外を回りながらも地元勢を一蹴。海の向こうで成し遂げた自身初のG1制覇は、離脱した戦友に捧ぐ勝利でもあった。
満面の笑みをみせた梅田は次のように語った。
「僕にとっても初めてのG1優勝。コース脇で(近藤)オーナーと一緒に観戦している中で勝てて、夢のようです」
そう語る師の横ではすでに1カ月半、家をあけた生活の続く古味と鹿戸が大粒の涙を流しながら抱き合っていた。
ゴール後、皆の元に戻ってきたアドマイヤラクティの上で、パートンが「この馬がチャンピオン!!」と誇らしげに言った。その瞬間、異国からの挑戦者は、地元勢を迎え撃つ王者へと立場を変えた。
1番人気に推されたメルボルンCには、思いもしない結果が待っていた
コーフィールドCを圧勝したアドマイヤラクティは、大目標であるメルボルンCで1番人気に支持されるまでになった。
レース3日前に行なわれた枠順抽せん会では近藤がクジを引いた。引く前に「縁起の良い末広がりでコーフィールドCと同じ8番を引いてくる」と言って席を立つと、本当に8番を引き当てた。24分の1の奇跡に、陣営は誰もが追い風が吹いていると思った。
しかし、影はひたひたと忍び寄っていた。
まずは2頭の取り消しが出た。これで枠順は幸運の8番から7番へと変更になった。
レース当日はイレ込んだ。プレパドックを歩かせるなどして落ち着くように汗を流した古味は、フレミントン競馬場内に咲き乱れる花々に目をやる余裕もなかった。なんとか無事にゲートに収まった時には、そんな努力が報われたと思えた。
スタートが切られると58・5キロのトップハンデを背負ったアドマイヤラクティは2番手を追走。「途中まではよい感じだった」とパートン。しかし、最終コーナーの手前で「何が起きたか分からなかった」(同騎手)と驚くほどの急失速。一気に最後方まで下がり、結果、22頭立ての22着で最後は歩くようにしてゴールに辿り着くのが精一杯となった。
残酷な競馬の神様が描いた結末とは……
馬房へ戻るため古味に引かれたアドマイヤラクティは、途中で急に走り出した。「必死に横についていきました」と古味。ラチに激突する寸前で何とか止まったものの「トモがフラフラ」(同助手)で、立っているのがやっとという感じ。それでも何とか馬房まで戻ったが、しかし、無情にもそこで時計の針がピタリと止まった。アドマイヤラクティは尻もちをつくように後肢から崩れると、二度と立ち上がることができなかった。無数の花に見守られながら唐突に逝ってしまったのだ。
一般客も見ることのできる馬房はすぐにカバーで遮られた。そのカバー越しに古味の大きな泣き声だけがいつまでも漏れていた。
「他の馬や人に迷惑をかけることなく馬房に戻ってから逝ったラクティは、一所懸命に走る彼らしく最後まで頑張ってくれました」
梅田はそれだけ言うと声を詰まらせた。
必死に涙をこらえていた鹿戸も、係員の女性に慰められた途端、涙が止まらなくなった。
近藤も男泣きに泣いた。
コーフィールドCを勝った際、志半ばで帰国を余儀なくされたバンデ陣営が不憫に思えた。しかし、それ以上の地獄が当時の覇者に待っているとは、競馬の神様は何と残酷なのだろう……。
アドマイヤラクティが残してくれたもの
全レースが終了し、陣営がウェルビーの検疫厩舎に帰った。すると、そこには幾つもの花束が届けられていた。
翌朝になると、馬房にはさらに多くの花束の他にメルボルンCの勝者に送られるカップの写真が切り抜かれて供えられていた。同じ検疫厩舎で過ごしていたライバル馬の陣営が作ってくれたものだった。
傷心のまま帰国の準備をする梅田厩舎のスタッフの耳に、思わぬ言葉が聞こえた。
“Good morning!! Our mate!!!(おはよう、僕らの仲間)”
声の発せられた方向をみると、残った馬の陣営達が、主のいなくなった馬房を1人1人覗き込んではそう声をかけていた。そして、その日以降、この挨拶は毎朝の彼等の習慣となった。
苦しさに耐えゴールへ辿り着き、力尽きる寸前まで文字通り必死に馬房を目指し歩いた日本の王者。彼は自らの命と引き換えに、改めて馬を愛する心の大切さを世界中のホースマンに残した。
あれから3年、今年もメルボルンCが間もなくに迫った。アドマイヤラクティは、きっと今も彼等の心の中で、生き続けていることだろう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)