津波の痕跡高と遡上高の違い 東日本大震災は遡上高が40メートル以上の巨大津波
平成23年(2011年)3月11日14時46分に三陸沖を震源とした東北地方太平洋沖地震では、宮城県栗原市で震度7をはじめ、福島、茨城、栃木の各県では震度6強を観測しています。
東北地方太平洋沖地震により大きな津波が発生し、東北地方の太平洋側では、高い津波が甚大な被害をもたらしました。このため、東日本大震災と呼ばれています。
巨大津波の高さの観測は難しい
津波の高さは、平常の潮位(津波がない場合の潮位)から、どのくらいの高さまで海水がきたかということで測ります。
昔からの主な方法は、海岸部におかれた海面と連動した井戸の中に浮きを浮かべ、その上下動を観測して津波の高さを観測する方法です。
浮きを吊り下げる装置をできるだけ高所に置いて観測していますが、吊り下げ装置の高さ以上の津波がくると、全く観測ができません。
巨大津波の高さは、建物や樹木などに残っていた津波の痕跡から求めます(図1)。
東北地方太平洋側の検潮所では、地震発生とほぼ同時刻に津波の第一波を観測しています。そして、第一派到達の30分~1時間後に岩手県三陸南部、宮城県、福島県北部では8~9メートルの高さの津波が襲いました。津波の高さは海岸付近の地形によって大きく変化します。岬の先端やV字型の湾の奥などの特殊な地形の場所では、波が集中するので、特に高くなります。
東日本大震災では、検潮できる範囲をはるかに超える津波でしたので、津波の高さは、主に津波の痕跡等から推定したものですが、津波の高さは、福島県と岩手県では痕跡高が15メートルを超えています(表1)。
東京都中央区銀座のソニービル壁面に3月8日から12日まで大きな布がぶら下げられ、東日本大震災のときの岩手県大船渡市白浜漁港の痕跡から求めた16.7メートルという高さが明示され、話題になっています。広告を出したYahoo!JAPANでは、報道によれば、記憶が薄れつつある中「防災意識を高めてほしい」という思いから、震災を象徴する「津波の脅威」を表現するため、この広告を出したとのことです。
津波の遡上高
津波の高さと言われているものは、津波自身の高さ(海岸の波打ち際での高さ)だけでなく、津波が陸に駆け上がった際の最大到達高度(遡上高)もあります。昔は、海岸の波打ち際での高さを観測することができなかったので、津波の高さというと遡上高でした。
遡上高は、津波の高さと同程度から、高い場合には4倍程度までになることが知られています。
東日本太平洋沖地震に伴う津波まで、観測史上最大と言われていた津波は、明治29年(1896年)6月15日の明治三陸沖地震で発生した津波で、岩手県大船渡市三陸町の38.2メートルでした。これは遡上高で、津波自身の波高は10~15メートルほどだったと推定されています。
東日本太平洋沖地震に伴う津波については、多くの人が現地調査を行い、倒れた木や漂流物の状況から遡上高などを調べていますが、明治三陸沖地震を上回る40メートル以上、観測史上最大の津波でした(表2)。
津波の高さについては、いろいろな定義がありますので、正しい知識を持つことが大切です。
(表1と表2は、東日本大震災後行われた気象庁の調査や港湾技術研究所と東京大学准教授・都司嘉宣の調査、東京大学大学院・佐藤真司教授の研究グループなどを抜粋したものです)
津波の高さと被害
津波の高さと被害とは、表2のような関係があります。
木造家屋では1メートル程度の津波から部分破壊を起こし始め、2メートルで全面破壊に至りますが、4メートルの津波となると、石造家屋や鉄筋コンクリートビルでも持ちこたえるとは言い切れなくなります。
東日本大震災では、4メートルとか5メートルといったレベルではなく、これを遙かに超える15メートルを超える津波が押し寄せたのです。
津波から命を守るには、遡上高より高い場所に避難が必要です。
そこまで逃げることができないなら、浸水深より高くて丈夫なビルの屋上への避難が助かる確率をあげます。
GPS波浪計と巨大津波計
国土交通省港湾局では、海岸から10~20キロメートル沖合に係留型のブイを用いたGPS波浪計を設置しています(図2)。これは、ブイの上下動をGPS衛星からの電波によって計測し、波浪や潮汐等の海面変動を観測しているものです。
GPSによる観測誤差を除去するデータ処理技術の急速な進歩があってできたものですが、津波の観測も可能であることから平成20年7月から気象庁等の関係機関へデータ提供も行っています。東北地方太平洋沖地震では、岩手県久慈沖、宮古沖、釜石沖の3つのGPS波浪計で6メートルに達する津波を繰り返し観測しています(図3)。
沿岸部の津波は沖合の津波の2~3倍の高さになるといわれていますので、この観測は、沿岸部で12~18メートルの津波が繰り返し襲ったことを示唆しています。
また、最初から津波をかぶることを想定し、水圧センサーによって高さ20m位の津波まで観測できる巨大津波観測計というものがあります。昔の巨大津波観測計は、津波襲来後に回収してデータを取り出す方法であり、研究には役立っても津波予報には役立たないものでした。
気象庁は全国の沿岸を66の津波予報区に分けていますが、東日本大震災後に、太平洋側の各津波予報区に巨大津波観測計を2基ずつ設置する方針を掲げ、整備を進めています。オンラインでデータを取り出し、地上回線だけでなく衛星回線も通じて観測データを集めるというものです。
このように、津波観測技術は格段に進歩し、津波予報も迅速に、正確に行う体制が整えられています。
実感した伝承されていない津波体験
東日本大震災のニュースをみていて、住宅街を初めての津波が襲った、空港が初めて津波に襲われた、など、あまりにも「初めて」という言葉が強調されていたことに、少し違和感を感じました。
私は、中学生でしたが、昭和39年6月16日13時1分に新潟地震が発生したとき、市内の信濃川沿いの中学校にいました(図4、丸の1が自宅、丸の1が中学校の位置、丸の2が新潟地方気象台の位置です)。
地震発生直後に校庭に避難したのですが、津波が来るということで校庭から屋上に避難しましたが、いつもは見えない海が近くの屋根越しに見えました。校舎の屋上から、津波のために一階部分が天井付近まで洗われる一部始終を見ました。
校舎の屋上には、近所に住む人たちが集まってきました。
大人は「地震のあとには津波」といい、整然と高い所へ避難していたと思います。信濃川沿いを走る国鉄の白新線は、線路上に近くの多くの人がよじ登って津波から難を逃れています。大きな地震発生後は、列車が止まりますので、線路上に避難でも安全です。
また、海辺にある新潟空港は津波を被ってしばらく業務停止しましたので、仙台空港は2回目の津波被害です。
東日本大震災と規模が違いますが、大きな津波が都市を襲ったことには変わりがありません。
「地震発生後は即ちに、少しでも高所へ避難」ということが徹底していた新潟地震では、津波による死者はでていません。
大昔の話ではありません。50年前の新潟地震の年は、前回の東京オリンピックの年です。
わずか50年ほど前の「地震発生後は即ちに、少しでも高所へ避難」という成功体験が伝わらなかったのです。
生まれていない人が大半でも、私のような体験者が少なからず生存している年月にもかかわらずです。
東日本大震災から6年目と大きく取り上げられていますが、50年後はどうなるのでしょうか。
地震と津波の教訓を50年伝えるにはどうしたらよいか、常に皆で考えておくべきことと思います。
図の出典:饒村曜(2012)、東日本大震災 日本を襲う地震と津波の真相、近代消防社。