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高校野球から中学野球に舞い戻った名将・鍛治舎巧監督「自分の信念のままに歩む」、ユニフォーム変更のワケ

高木遊スポーツライター
秀岳館、県岐阜商の監督を経て枚方ボーイズの監督に復帰した鍛治舎巧監督※高木遊撮影

熊本の秀岳館高では4季連続甲子園出場・3季連続4強入りに導き、県岐阜商では低迷していた母校を再建し4回の甲子園出場に導いた名将・鍛治舎巧監督が10月1日から中学硬式野球の名門・枚方ボーイズ(大阪)の監督に復帰した。

かつてパナソニックの社員・役員を務めながら、同チームを率いて2002年の全国初優勝から12年間で12回の全国優勝を果たし、中学球界でも名将だった鍛治舎監督に、これまでの人生で大切にしてきた信念や新たな野望を聞いた。

鍛治舎巧(かじしゃ・たくみ)・・・1951年5月2日生まれ。岐阜県出身。県岐阜商、早稲田大、松下電器でプレー(75年秋に阪神からドラフト2位指名されるも拒否)。松下電器の監督や専務も歴任した※高木遊撮
鍛治舎巧(かじしゃ・たくみ)・・・1951年5月2日生まれ。岐阜県出身。県岐阜商、早稲田大、松下電器でプレー(75年秋に阪神からドラフト2位指名されるも拒否)。松下電器の監督や専務も歴任した※高木遊撮

――まずは枚方ボーイズの監督に戻られた理由を教えてください。

鍛治舎 もともと秀岳館の監督を5年やったら復帰する予定だったんです。でも、秀岳館を退任して、この家(取材場所の自宅)が出来上がった後すぐ県岐商(県立岐阜商業)から話があって。「帰ってきたばかりだし・・・」という思いや設計から携わった家でしたから思い入れもあって住みたかったのですが、母校が大変だというのでね。その年の前の夏に公立校にコールド負けするくらい低迷していましたから、「野球部創部100周年(2024年)まで」ということで監督に就任することになりました。

――それで今夏の退任となったわけですね。

鍛治舎 新チームが佐々木泰(青山学院大4年のドラフト候補スラッガー)のいた時よりも打つレベルなんです。これならセンバツ甲子園へ行けそうだから、いつまでも自分がいるより、センバツに繋がる新体制でやった方が、結果が出ると思いました。新監督は藤井潤作。市立岐阜商のOBで、この4月に赴任してからは全試合ベンチに入れていたのですが、選手たちとのコミュニケーションの取り方も良いなと思って。ただ、県岐商はOBの一部が口うるさいから、ちょっと結果が出なかったらワーっと雑音が入る。藤井君はOBでないだけに「風当たりが強いのは可哀想だな」と心配ではあります。

――風当たりの強さを受けたり、アンチと言われる方にいろんなことを鍛治舎監督ご自身も言われたりしてきたと思います。

鍛治舎 ええ、私はまったく気にしないです。自分の信念のままに歩む。野球もそうでしたし、仕事もそうでした。何かにつけて批判的なことを言う人はたくさんいますから。半分以上の人に反対されたらどうかなと思いますが、51対49であっても半数以上が「これは良いかな」と思ったら前に進めると思っています。それが自分の生き方です。変えること、現状打破が好きなんです。そこに生きがいを感じています。

――その原点はどこにありますか?

鍛治舎 初めて部下を持った29歳の時から、いつも部下には「1年に、3分の1は仕事の内容を変えなさい」と言っていたんです。「内容で変えることが無ければやり方、やり方で変えることが無かったら、使っている帳票を変えなさい。すると3年経ったらまったく新しい仕事になっているから、他の役割とか役職とか部署とか、そうやってジョブホッピングして自分を高めていけばいい」と言ってきました。

――人は、安心したことや慣れたことだけやりたくなるものですが…

鍛治舎 仕事というのは「問題解決」です。問題があるから対応して、仕事になる。安心や慣れから新たな仕事は生まれません。

――パナソニックでも大規模なリストラを担当されましたよね。

鍛治舎 私が労政部長をしていた時のことです。トップや担当役員、労働組合も含め議論を重ね、個人の選択に委ねる決定をした上で実行しました。なにしろ全社一斉に募集したのが初めてでしたから大きな話題となりました。勿論、私が1人で決めた訳ではありません。とりわけ、1人のジャーナリストが集中的に批判記事を書きました。そのうちトップも担当役員も退任しましたから、私が集中砲火を浴びました。 でも彼は批判するのが仕事。だから仕方ない。こちらも割り切って「それでいいや」と。

県岐阜商時代の鍛治舎巧監督※高木遊撮影
県岐阜商時代の鍛治舎巧監督※高木遊撮影

――「変える」ということで言えば、なぜ秀岳館でも県岐阜商でも枚方ボーイズのようなユニフォームに変えたのですか?

鍛治舎 赤と白は反対色で日本人が一番好きな色なんです。日の丸がそうですね。その次が青と橙色の反対色で、青とオレンジが一番映えるんです。秀岳館は最初グレーのユニフォームで、理事長が「どうしてもこれでいきたい」と譲らないから「どうしたもんかな?」と思ってハッキリ言ったんです。「熊本工業の二番煎じ(同じ色、同じスタイルのユニフォーム)は良くない。熊本工業に勝たなきゃ甲子園に行けないんですから」とね。あと、帽子は浦和学院の当時のユニフォームを真似ました。中学生が憧れるユニフォームにしたいと思ってね。

――伝統校である県岐商でユニフォームを変える時は大変だったのではないですか?

鍛治舎 県岐商のユニフォームを変えるって早稲田大学のユニフォームを変えるのと一緒でしょ。何十年も歴史があるんだから。本来、絶対無理ですよね。

――それでも変えた理由は何だったのでしょうか?

鍛治舎 当時の状況として、ファンだった県民の皆さんも多くのOBも、勝とうが負けようが、それはもう無関心だったんです。「もうダメだ」っていう諦め。ふるさと岐阜に初めて乗り込んでいった際に「もしかしたらユニフォームを変えるかも…」という噂を流しましたが、ほとんど無反応だったんですよ。だから1年間待ちました。そうは言ってもなって。でも、あまりにも反応が無かったんで、もう変えようと思いました。2年目の春の東海大会からパッと変えました。そしたらもう、案の定様々な論争が起こりました。それを見聞きして「やっと関心を持ってもらえた」と思ったものです。関心を集めることが大事なんです。

つづく

スポーツライター

1988年10月19日生まれ、東京都出身。幼い頃から様々なスポーツ観戦に勤しみ、東洋大学社会学部卒業後、ライター活動を開始。大学野球を中心に、中学野球、高校野球などのアマチュア野球を主に取材。スポーツナビ、BASEBALL GATE、webスポルティーバ、『野球太郎』『中学野球太郎』『ホームラン』、文春野球コラム、侍ジャパンオフィシャルサイトなどに寄稿している。書籍『ライバル 高校野球 切磋琢磨する名将の戦術と指導論』では茨城編(常総学院×霞ヶ浦×明秀日立…佐々木力×高橋祐二×金沢成奉)を担当。趣味は取材先近くの美味しいものを食べること(特にラーメン)。

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