「超名門の1年生4番」はなぜ1年後アメリカの大学へ? 石川ケニーが語る転学のワケと夢
休みの日はサーフィン
1年前に超のつく名門大学で「1年生4番」を任されていた男は、今年9月に海を渡った。
「新しい環境にワクワクしていますし、Instagramで発表した際もいろんな人が応援してくれていると実感しました。どこに行っても自分のやるべきことは変わりません」
出国直前の取材で高揚感と使命感を昂らせていたのは、アメリカのシアトル大へ9月に編入した石川ケニーだ。それまでは亜細亜大の2年生で、昨春のリーグ戦では1年生ながら4番打者として起用されていた。
日本人で横浜育ちの父とアメリカ人でハワイ育ちの母の間に5人兄弟の三男(第三子)として生まれ、大相撲で活躍した小錦を輩出したオアフ島で育った。透き通るような海に囲まれ、休みの日にはビーチに出てサーフィンに興じた。
小学2年生になると、父が祖父の会社を継ぐことになり、来日。父・則良(のりき)さんは、ケニーが生まれた頃にはハワイでリムジンドライバーをしていたが、青森山田高と東北福祉大、ハワイアンリーグ(独立リーグ)でプレーした野球人だった。
こうした父の影響で小学4年になると野球を始めた。父の熱血指導と大自然で培った身体能力で、メキメキと力をつけると、瀬谷リトルシニアでは2年生ながらレギュラーとして全国大会に出場。
県内外多くの強豪校から声がかかったが、明秀日立高(茨城)を選んだ。
「兄(次男)が明秀で甲子園に出られなかったので、“兄の分も甲子園に出る”という思いで入りました」
指揮を執るのは、父の東北福祉大の先輩である金沢成奉監督。それだけに「結構怒られましたね」と笑うが、「今となっては生きていることばかり」と感謝する。
「“喜怒哀楽が激しい”とよく言われていたのですが、主将を任せてもらって人間的に成長できたと思います」
投げては左腕から最速144キロ、打っては高校通算26本塁打。甲子園も春夏連続で経験し投打二刀流で活躍を遂げた。夏は、その後に優勝を果たし、須江航監督の「青春は密」で社会的にも大きな影響を与えた仙台育英戦に4対5で敗退。惜敗で「今でも悔しいです」と顔をしかめるが、貴重な経験を詰んだ。
そして、大学は日本一やプロ野球選手輩出が多数の超名門・亜細亜大へ進学。「生田勉という凄い指導者の下で、やりたかったんです」と決めた。
なぜアメリカへ?
亜細亜大での日々は当初、充実していた。「生田監督はすごく刺激的でした。高校の金沢監督とはまた違った指導、怒り方ですし、同じ厳しさもありました」と振り返るように、愛情や意図も汲み取り、応えようと励んだ。生田監督もまたケニーの素質を認め1年春から4番打者として起用した。
だが、春季リーグを終えたタイミングで生田監督が退任。信頼する指揮官が去り、「生田監督が辞めた瞬間に自分も転学しようと思いました」と振り返るほどショックを受けた。それでも急遽、昨秋のリーグ戦限定で指揮を執った鈴木一央監督や当時の4年生の人柄や姿勢などに惹かれることが多かったこともあり、チームに残った。
だが今春は試合に出られず。くすぶっていた際に、かねてからの知人に思わぬ声をかけられた。
「アメリカのサマーリーグに参加してみないか?」
サマーリーグは、アメリカの大学生選手の希望者が夏休みの期間に戦うリーグ戦だ。石川は「試合に出られていなかったですし、アメリカの文化も知りたくて」と参加を決め、亜細亜大にも許可を取り参加。ポートランド・ピクルスに参加した。
リーグにはNCAA(全米体育協会)のディビジョン1でプレーする選手も多く参加していてレベルが高く、刺激は大きかった。また、雰囲気もとても気に入った。
「すごく好きでした。レベルは日本の大学野球と匹敵していましたが、スタイルは日本と真逆でした。ゴロも正面で捕る必要はないし、凡打してもトライしたらOKというような雰囲気でした」
心身ともに充実し、さらに高校以来となる投手としてのリーグ戦出場も続ける中で、高いポテンシャルは遺憾無く発揮された。その活躍を見たシアトル大から声がかかり、迷いや未練は無かった。
「試合に出られず先が見えなくなっていましたし、部の雰囲気も変わってしまっていました。上のレベルでプレーし続けたかったですし、環境を変えるという意味でもシアトル大に決めました」
投手として声がかかったが、打撃も見せると「打撃も良いね」というリアクションがあり、投打二刀流でプレーする可能性が高く、これにも心の底から情熱がたぎる。
アメリカの国籍も持っているため、転学の手続きも滞りなく進み、英語も話せるため指導陣とのコミュニケーションも円滑に行うことができる。
「シアトル大に限らず、アメリカの指導者と選手は対等で、敬語も無いですし思ったことを素直に言える文化です。例えば“なんで自分は試合に出られないんですか?”と聞いてもストレートに答えてくれるし、ストレートに返せる関係性があります」
日米どちらの文化が良い・悪いではない。筋が通って意図が明確で納得できれば、より理解が深まり成長に繋げられる。そうして金沢成奉、生田勉という2人の名将から学んだことが土台となっており、ここからそこにアメリカ野球のエッセンスを加えていく。
亜細亜大での単位も認められ、昨年1年間はリーグ戦に登録・出場していたため、シアトル大でのプレーは最長でも3年間。3年後には再び日本に戻ることを夢見ている。
「マイナーリーグでプレーするよりも、NPBでプレーしたい気持ちがあります。日本は便利ですし、食事の面もやっぱり日本の方が良いので。日本でまたプレーできる機会があるなら戻ってきたいです」
身長180センチ85キロという体格でありながら、サマーリーグのチームでは身長が最も低かった。それには驚いたが「体の厚みは負けていませんし、野球は別に負けてないですから」と笑う。
その表情や話しぶりには、確かな自信が感じられた。悶々とした日々の前に現れたビッグウェーブ。この波に乗った先に、新たな成功があると信じている。