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「やれば出来る」の初出場優勝・済美/センバツ・旋風の記憶[2004年]

楊順行スポーツライター
上甲正典監督(写真は2013年)(写真:岡沢克郎/アフロ)

♪「やれば出来る」は 魔法の合いことば

 時の首相が所信表明演説で使ったこともある「やれば出来る」。2004年のセンバツで初出場優勝を遂げた、済美(愛媛)の校歌の一節だ。

 02年4月。男女共学化と同時に野球部が創設された済美は、1988年のセンバツで同県の宇和島東を初出場優勝に導いた上甲正典監督を招へい。そこから丸2年でセンバツに出場すると、創部2年目として史上2校目のセンバツ初勝利を挙げ、ダルビッシュ有(現パドレス)が登板を回避した東北(宮城)との準々決勝では、高橋勇丞(元阪神)がそのダルビッシュの頭上を越える左翼へのサヨナラ3ラン。4点差をひっくり返してのサヨナラ勝ちは大会史上初めてだった。さらに、創部3年目(つまり、実質丸2年)の優勝も史上最速。ミラクルずくめだったが、初出場でも「やれば出来る」のである。

 上甲監督を招へいするとともに、松山市郊外に済美球技場という専用グラウンドが完成した。入学当時を思い出すのは、ショートを守る新立和也だ。

「中学時代、上甲さんが監督になると聞いて、済美でやりたいと思いました。家がグラウンドから自転車で20分くらいなので、工事中もときどき見に来ていた。広くて、素晴らしい施設になりそうでした」

 その球場開きにやってきたのが、明徳義塾(高知)である。宇和島東時代から旧知の明徳・馬淵史郎監督が、練習試合を快諾してくれたのだ。森岡良介(元中日ほか)、筧裕次郎(元近鉄ほか)らがいて、この年の夏に全国制覇することになる年代だ。それに対して済美は、入学したばかりの1年生だけ。試合は「20対ナンボ」(上甲監督)と、まるで野球にならない。1年生同士の対戦でも、スコアは似たり寄ったり。それはそうだ、鶴川将吾、梅田大喜といったのちのVメンバーがそこにはいたのだから。

「馬淵君はそれでもイヤな顔ひとつせず、その後も練習試合を引き受けてくれた。足を向けて眠れんよ」

 上甲監督は、そう語っていたものだ。

 恵まれた環境で豊富な練習をこなしながらしかし、なかなか結果がついてこない。1年生だけで臨んだ02年夏は、当然初戦負け。秋は2勝して県大会に進むのがやっとで、03年春は喫煙事件が発覚して出場を辞退する。夏は、練習試合でこの年の愛媛県代表になる今治西に勝つなど力をつけていたが、本番では丹原に0対10のコールド負けだ。「調子がよかっただけに、そこそこいけるんじゃないかと浮かれていた」というのは、当時主将を務めていた甘井謙吾だ。

 だが新チームでは、どこよりも経験豊富で、さらに1年生の福井優也(元広島ほか)の台頭もあり、練習試合では負けなしの快進撃が続く。18連勝。新人戦2戦目で東温に苦杯を喫すると、練習ではさらに妥協を許さなくなった。たとえばノック。無作為で飛んでくる打球を、27本連続アウトを取るまで終わらない。27本目でミスをすると、また一からやり直し。きわどい打球もくる。たび重なれば疲労も募り、ふつうなら捕れている打球でもミスをしてしまう。ときには、夕方7時から始まり、11時近くまでかかったこともある。野間源生二塁手はいう。

「僕とサードの田坂は、とくにプレッシャーに弱いから、26本目、27本目の打球がきました。そこでよくミスった。また1本目からやり直しです。家が遠く、自転車で通っていた鵜久森淳志(元日本ハムほか)なんか、家に着いたら夜中の12時半だったことがあるそうです。でも、そういうプレッシャーのなかで練習していたから、だんだんハートがタフになってきたと思う」

 攻撃力を磨く工夫もあった。150キロに設定したマシンをはじめ5カ所のフリー打撃のほかに、鉄パイプを持ってティーを打つ。パイプの重量は1.5キロから2キロ超など3種で、わざと水を含ませた重いボール、あるいはゴルフボールを使う。パワーを養い、しっかりシンでとらえるためだ。それもこれも明徳さんが目標でした、と上甲監督。

「明徳と対等に戦えれば、愛媛で勝ち抜けるし、全国レベルでもなんとかなる。暑いときも寒いときも”明徳はきっとまだ練習してるで“と生徒のシリをたたいてやってきた」

馬淵君には、足を向けて眠れんよ

「打倒明徳」がかなうのは、9月末の練習試合だ。11対9。おそらくは10試合近く行ってきたなかで、初めての勝利だった。「あれがすごく大きな自信になりました。最上級生になれば、対等に戦えるかな……と思っていましたが、それが実感できた試合です、というのは高橋だ。

 明徳とは、四国大会でも準決勝で対戦。0対7の劣勢からその高橋の2ランなどで打線に火がつき、大逆転勝ちを果たすとイッキに四国チャンピオンに。その後の神宮大会では、不調のダルビッシュを餌食にし、東北に7対0とコールド勝ち。そうしてやってきた初めての甲子園で、再び明徳と対戦したのもなにかの因縁だろう。ここも7対6と、序盤の大量リードを守り切った。

 天候の影響で、これも史上初のナイトゲームになった愛工大名電(愛知)との決勝も、6対5。神宮大会組が6チーム入った激戦ゾーンで、2回戦から4試合続けて1点差勝ちというしたたかさは、とうてい創部3年目とは思えなかった。奇しくも上甲監督の宇和島東時代と同じ、愛知県勢を決勝で倒しての優勝。上甲監督にとっては、ややこしいが、2度目の「初出場優勝」ということになる。

「ベンチでは、なんとかリラックスさそうと笑顔でいましたが、今日はさすがに笑顔も引きつりました。苦しい試合が続いたなかで、生徒たちが急にねばり強くなった。精神的な強さを認識させられました」とは、上甲監督の優勝インタビュー。そういえば明徳・馬淵監督は大会前、「おんちゃん(上甲監督)、乗せるのがうまいからのう……」と語っていたっけ。

スポーツライター

1960年、新潟県生まれ。82年、ベースボール・マガジン社に入社し、野球、相撲、バドミントン専門誌の編集に携わる。87年からフリーとして野球、サッカー、バレーボール、バドミントンなどの原稿を執筆。85年、KK最後の夏に“初出場”した甲子園取材は64回を数え、観戦は2500試合を超えた。春夏通じて55季連続“出場”中。著書は『「スコアブック」は知っている。』(KKベストセラーズ)『高校野球100年のヒーロー』『甲子園の魔物』『1998年 横浜高校 松坂大輔という旋風』ほか、近著に『1969年 松山商業と三沢高校』(ベースボール・マガジン社)。

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