落語で学ぶ障害者への偏見差別と「笑い」の心理学(6月5日は落語の日)
■6月5日は落語の日
6月5日は、語呂合わせから「落語の日」だそうでございます。今、落語は大ブーム中。現在の落語家の数は、ざっと800人。これは、人類史上最大の数でございます。いつか、落語家が増えて増えて、そのうち人類を征服するのではないかと、私も日々心配しております。
■落語に登場する愛すべき変人達
さて、落語にはさまざまな人が登場いたします。熊さん(熊五郎)、 八っつぁん(八五郎)に長屋のご隠居、それに与太郎。どれもユニークな人たちでございまして、今風に言えば、何か「診断名」がついてもおかしくないほどの、おっちょこちょい、世間知らず、あわてんぼうに、ぼーとしていて、毎日「チコちゃん」(NHK)に叱られているんじゃないかという人たちでございます。
落語なんてものは、大昔の話でございますから、遠慮ってものがございません。「この、ばかたれ!」「甲斐性なし!」「豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ!」と、それはもう罵詈雑言(ばりぞうごん)の嵐。当時は、不快用語やら、不適切発言なんてものは、なかったのでございましょう。
(昔、寄席には、その人のお客様を見て、たとえば「今日は足の悪いお客様がお見えです」といった張り紙が楽屋に張られていて、そうするとその人が不快に思う話はやめようと落語家のみなさんは考えたそうです。)
もちろん、人を馬鹿にしちゃぁいけませんが、熊さんも 八っつぁんも与太郎も、みんなに愛されながら、ツッこまれているのが、落語なのでございましょう。
落語はなかなか心理学的話題が満載でして、たとえば古典落語『天災』の中では、短気でけんかっ早い八五郎にご隠居さんが諭す、今で言えばアンガーコントロールの話が滑稽噺として描かれています(「やられてもやり返さずに勝つ方法:古典落語と心理学から学ぶ人間関係」Y!ニュース有料)。
■孝行糖:知的障害者の商売物語
古典落語『孝行糖』(こうこうとう)。この落語の主人公は、うすぼんやりしている若者、与太郎です(上方では吉兵衛)。なかなか人並みの仕事はできません。ところが、この若者はとても親孝行だったということで、奉行所から報奨金を頂戴します。お奉行様の中には、人情味のある方もいたものです。
さて、長屋のみんなは喜んで、この金で一杯やろうなどとも思うのですが、大家さんは違います。さすが、年の功です。「何言ってんだ。この金で、一人暮らしのこいつの身が立つように小商いでもさせよう」と提案いたします。
そこでみんなで考えて、この報奨金をもとに、与太郎に行商の「飴屋」を始めさせます。みんなで一生懸命面倒をみ、アイデアを出し、飴を「孝行糖」と名づけ、与太郎に楽器を持たせ珍妙なかっこうをさせて面白おかしい売り声と踊りを教えます。
与太郎は、毎日毎日商いに励みます。「孝行糖、孝行糖」と売り歩く与太郎の飴は、いつか評判になり、この飴を子供に食べさせると親孝行になるという評判と共に、商売は大繁盛したのでございました。
ところが、あるお屋敷の前を通りかかったとき。あまりに珍妙でうるさかったために、門番に叱られてしまいます。上手に弁解できれば良いのですが、与太郎にはそんな器用さはなく、むしろ面白おかしいかけ合いが始まってしまいます。とうとう怒った門番は、六尺棒で与太郎のことをポカ、ポカ!
そこへ、与太郎のことを知る人が現れて事情を説明し、門番を止めてくれます。そして与太郎をいたわり、
「どれ、どこを殴られたか言ってみろ」
すると飴売りの与太郎は、泣きながら体を指差して、
「こぉこぉとぉ(=ここと)、こぉこぉとぉ……」。
お後がよろしいようで。
(最近ワイドショウーにもよく出演する立川志らくさんは「数ある落語の中で他に類を見ないほど馬鹿馬鹿しいオチである。」と述べているそうです。)
■障害者に対する態度
現代なら、障害を持っている人を侮辱するようなことを言えば、叱られます。それは良い社会です。でも、うっかりすると、だから関わるのをやめようと思う人もいるかもしれません。
それでも、身体障害に対する偏見差別は少しずつ改善されているのでしょうか。けれども、知的障害、精神障害に対する偏見差別は、根強く残っていることでしょう。
道路の向こうから車椅子の人が来れば、まともな現代人は不快な顔などしません。けれども、向こうからへらへら笑いながら誰かが来たら、露骨に嫌な顔をして、避けて通る人もいることでしょう。
街角に不審者がいると通報されて、警察が行ってみたら、実は障害を持った人だったといった話は、マスコミ報道はされませんが、実はけっこうよくある話です。
心理学の研究によれば、私たちの表面的な偏見差別の態度に改善は見られても、簡単に表面化しない「潜在態度」の中には、まだまだ偏見差別の心が残っていると言われています。
落語の「与太郎」も、おっちょこちょいの熊さん、 八っつぁんも、みんなに迷惑をかけて叱られたりもしますが、排除はされません。みんな長屋の仲間です。落語の登場人物たちは、福祉もバリアフリーも人権もインクルージョンもボランティアも、何にも知りませんが、みんなで一緒に生きています。
長屋のみんなは、彼らを愛し、個性を認め、自立できるように支援しています。そしてその落語の世界を、私達は楽しみ続けてきました。
■おもしろい話と障害者への偏見差別と
ユーモアや笑いは、とても高度で複雑です。笑うのは人間だけです。そのため、心理学の研究もなかなか進みません。ある心理学者は、緊張がとぎれたときに笑いが起こると言います。あるいは、アンバランスが笑いを生みます。
子供や年寄りが転んでも笑えませんが、偉そうなお侍がいばって歩いているところで、すってんころりと転べば、笑いが起きるわけです。
ある心理学者は、「なぞかけ」の研究をしました。面白いなぞかけの特徴はなかなか分からなかったのですが、面白くないなぞかけの特徴は見えてきました。
面白くないなぞかけとは、
1当たり前
たとえば、「消しゴムとかけて修正液と解く。その心は、どちらも文字を消すでしょう」。
2わからない
たとえば、「リンゴとかけて自動車と解く。その心は、どちらもネコでしょう」。
3笑えない
笑えないとは、倫理道徳に反するようなことです。それは、どこからか文句が来るというよりも、客自信が楽しくない、笑えないと感じてしまうないようです。
こう考えると難しいものです。
現代においては、偏見差別はいけないといったことは当たり前で、そのまま直球で表現しても人は興味を示さないもしれません。学者さんが難しい話をしても、伝わらなければ意味がありません。一方、ウケを狙っただけの独りよがりは、周囲の反感を買うかもしれません。
触らぬ神にたたりなしで、ただ触れなければよいわけではないでしょう。障害者スポーツや、障害者ダンスや、障害者のお笑いや、みんなで本当に楽しめるようになれれば良いですね(NHKの「バリバラ」も攻めています。
<「感動ポルノ」はダメなの?:24時間テレビとバリバラの間で:無意識の差別と障害者の教材化>
以前、スペシャルオリンピックス(知的障害者のオリンピック)日本の大会が当地新潟で開催されたとき、私も見に行ったのですが、スピードスケート競技に参加したある少年が途中で止まってしいました。すると、客席から大きな声がかかりました。
「休むな! 最後まで行け!」。やさしい声援とか「そのままでいいんだよ」メッセージというよりも、だみ声の叱咤激励です。でも、それは侮辱でもなく、非人道的でもなく、彼はまたがんばって滑り始め、会場は温かでユーモラスな雰囲気と楽しい笑い声であふれました。
今はもう長屋はありませんが、落語が描き続けてきた長屋の心を失わず、その心を21世紀にも活用していきたいものです。