「感動ポルノ」はダメなの?:24時間テレビとバリバラの間で:無意識の差別と障害者の教材化
■「ポルノ」とは
「ポルノ」とは、猥褻な写真、小説、映像などのことだが、ポルノは女性をモノ化して、男性に都合の良い女性の魅力だけを強調していると批判されることがある。
最近、このポルノという言葉がいろいろな場面で使われ始めている。モノ化し、単純化し、魅力を不自然に作り出し、利益を上げようとするものは、ポルノというわけだ。
だから、障害者を作って感動物語を仕立て上げることを、「感動ポルノ」と言う人もいる。
■感動してはダメなの?
人は感動したがっている。感動する映画を見るし、音楽を聴くし、スポーツを見る。「24時間テレビ 愛は地球を救う」が感動ポルノなら、甲子園だってオリンピックだって、スポーツ感動ポルノという見方もできてしまうだろう。感動自体が悪いわけではない。
今年の「24時間テレビ」の裏番組として話題になったNHK教育テレビの「バリバラ」。テーマは「笑いは地球を救う」。完全に、24時間テレビのパロディだ。
けれども、その「バリバラ」の出演者も語っている。「誤解してほしくないのは、感動は悪くないんですよ。感動の種類をちゃんとわかってないと怖い」「一番怖いのは無意識」。
■感動の種類と無意識の差別
私たちは、何に感動するのだろう。何を賞賛するのだろう。
人は、一生懸命生きるようにできている。だから、私たちは一生懸命頑張っている人を見ると、感動する。アスファルトのスキマから花を咲かせるタンポポにまで、感情移入して感動するほどだ。
だから、障害者でも、中高生でも、頑張ってチャレンジしている人に感動し、賞賛したくなるのは、当然だろう。けれども、障害者でも中高生でも特に頑張ってチャレンジしていない人には、感動もしないし賞賛もしない。すべきではない。
ところが、障害者感動ポルノが蔓延すると、特に何もしていない障害者にも感動し、賞賛したくなる人が出てくる。
感動している人は100パーセント善意、好意なのだろうが、心理学的に見ると、その心の底には偏見差別の心が潜んでいることがあると言われている。
たとえば、もしも地方出身者が東京で普通に生活している姿を見て、地方出身者なのに都会で頑張っているなんて素晴らしい、感動したと東京出身者たちに言われてみんなに拍手されたらどうだろう。素直に喜べるだろうか、それとも不愉快だろうか。
さらに、地方出身者は困難を乗り越え頑張っているんだから、そんなに責任の重い大変な仕事をしなくても良いと言われて、仕事を取り上げられたらどうだろうか。
私たちは、ときおり好意を持って善意で人を差別する。この好意的差別の裏には、相手を一段低く見る敵意的差別が隠れていることもある。
たとえばジェンダーに関する研究によれば、レディーファーストを行える男性は評価が高まるものの、彼らの中には女性蔑視の人たちも同時にいることがわかっている。差別の心には、露骨に行われる敵意的差別と、善意で行われる好意的差別があるのだ。
■偏見
偏見とは、出身地、職業、病気、民族など、あるグループに所属するというだけでその人に対してもるマイナスのイメージだ。
障害者にも多様な人々がいるのに、一定のイメージを押し付けるのは迷惑だろう。一見善意に見えても、ある人々を一まとめにして一つのイメージで考えてしまうのは、ステレオタイプであり、それは容易に偏見差別につながっていくだろう。
障害者も、健常者同様に、様々な人がいる。善人も悪人も、チャレンジしている人も、していない人も。同情も特別視もお断りな人もいるし、また同情されたり賞賛されることを望む人もいるだろう。
どのグループの中にも、多様な人々がいるのだ。
■障害者の教材化と、私たちが目指す社会
大地震の後の避難所で、ある被災者が語っていた。
「また新しいボランティアさんかしら。でも、ここはボランティアのための施設じゃないのにね。私たちは練習台じゃないのに」。
「感動ポルノ」という言葉を作った、形成不全症でコメディアン兼ジャーナリストのステラ・ヤングは、障害者が健常者を感動させるためにモノ化され消費されていると述べている。障害者は、健常者を感動させるためにいるわけではない。
障害者をモノ化して消費してしまってはいけない。災害の被災者も同様だ。昨日まで鈴木さん、佐藤さん、有能な社員、元気な魚屋さんといった人々が、一まとめに「被災者」と言われることに、違和感はある。
その言葉自体が悪いわけではないし、援助や配慮は必要だ。しかし、被災者として一まとめにし、弱者や感動のイメージを押し付けるのは、被災した方々の自尊心を傷つけることにもなるだろう。
けれども、実は障害者の中には慣れている人々もいる。大勢のボランティアさんや見学者の受け入れに慣れていて、お客さんたちを歓迎し、自分たちも楽しんでいる人々もいる。
さらに、自分は子どもや初心者たちの「教材」になっても良いと語る障害者もいる。病院の患者さんにも、自分を練習台にして良いと言って実習生を育ててくれる人がいる。被災体験や、被爆体験者で、語り部になっている人々の中にも、そのような意識の人もいる。
テレビに顔や実名を出し、病気や障害の日常を見せていただける人も、犠牲を払ってくれている。それは「有難い」ことだ。
私たちは、障害者の活動から学ぶことがある。だが、それは押し付けるものではなく、自主的に行われなければならないだろう。
「24時間テレビ 愛は地球を救う」が39年の間に果たしてきた社会的貢献は大きい。金銭的な貢献に加えて、心理的な貢献も大きい。大好きなアイドルが、ゴールデンタイムのテレビで、障害を持った子どもたちと活動する。このような姿は、社会の偏見差別の解消につながってきただろう。
しかし、社会は変化している。また善意の演出が、いつも好影響を与えるとは限らない。
ステラ・ヤングは、障害が「ふつう」である世界で生きていきたいと語っていた。
以前アメリカのテレビドラマで見た。そのドラマでは、学校の生徒たちが登場するのだが、一人車椅子の少年が登場する。しかしその少年は、ドラマの中では何も特別な扱いをされていなかった。メインの登場人物でもなく、車椅子にからむ事件も一切起きず、その他大勢の役名もセリフもない生徒役の一人に過ぎなかった。
日本のドラマなら、ありえないだろう。車椅子の少年が登場すれば、もちろん何かが起きて、感動ストーリーが繰り広げられるはずだ。
障害が「ふつう」である社会に向かって、私たちは歩んでいる。感動ドラマが必要なこともある。ただそれは、「ふつう」に向かっていくための一つのステップなのだろう。
■関連サイト
「障害者パロディ」がNHKにできても日テレにはできない理由(碓井真史):産経デジタル総合オピニオンサイト『iRONNA』
24時間テレビの心理メカニズム:Y!ニュース個人碓井