政府は「非正規の賃上げ」を実現できるか? 春闘の原理から考える
インフレが深刻化する中、賃上げの議論が活発化してきている。新年早々、首相も経団連会長も賃上げの必要を訴えている。ただし、報道を見ると賃上げの政府や経団連の賃上げ対策は、個別企業に対する「お願い」にとどまっているようである。
果たして、首相や経団連会長の賃上げの「お願い」は有効なのだろうか。とりわけ、相対的に立場が弱く賃金も低い非正規雇用労働者の賃上げは、こうした「お願い」によって実現可能なのだろうか。
参考:岸田文雄首相:「賃上げをなんとしても実現する」「インフレ率を超える賃上げの実現をお願いしたい」(TBS)
参考:経団連・十倉雅和会長「物価高に負けない賃上げを会員企業にお願いしている。これはもう企業の責務。」(ロイター通信)
安倍政権下の「官製春闘」でも賃金は上がらなかった
実は、首相による賃上げの「お願い」という方法は、すでに先例がある。安倍政権下の「官製春闘」だ。「春闘」は労働組合が経営側に毎春に賃上げ要求を行うという日本の労使慣行であるが、安倍政権下では2013年以降、政府が経営側に賃上げを強く要請する「官製春闘」という形で行われてきたわけだ。
たしかに、「官製春闘」において、一部の大企業は、例年よりも高い水準での賃上げを発表し「成果」が上がったようにも見えた。ところが、実際には日本全体の賃金水準はほとんど上がっていない。
これは春闘がそもそも大企業を中心としてきたことに関係しているだろう。大企業の社員の賃金があがっても、下請け・注業企業や非正規雇用には波及していないということが考えられのだ。実際に、大企業の賃上げは下請け企業の賃下げや労働強化とセットで実施されることもしばしばだ。
ここ30年間でみても、日本の平均賃金は全く上がっていない。2021年の平均年収は約443万円だが、約30年前の1989年の平均年収は約452万円であり、むしろ微減している。これは国際的に見ても異例のことである。この間に、アメリカでは200万円以上も平均賃金が増えているし、韓国では平均賃金が約2倍になっている。
これらのことを踏まえると、首相と経団連会長による賃上げの「お願い」攻勢によって、実際に賃上げが実現するのかは疑問である。すでに、このままでは物価高に賃上げが届かないという観測も出ている。
「春闘」からも漏れる非正規雇用労働者
一方で、政府や経団連による賃上げの「お願い」とは別に、労働組合による「春闘」の要求もこの間で本格化してきている。日本最大の労働団体である連合は、「春闘」で5%程度の賃上げを要求する方針を決定している。
参考:連合 来年の春闘 5%程度の賃上げ要求方針を正式決定(NHK)
ここで「春闘」の仕組みについても簡単に解説しておこう。「春闘」とは「春季闘争」の略称で、毎春に労働組合が経営側に対して一斉に賃上げを要求する運動のことである。主要産業のリーディングカンパニー(パターンセッターと呼ばれる)との交渉によって賃上げ回答を引き出して、「賃上げ相場」を決定し、それが同業他社や他産業の企業へも波及するという仕組みである。
また、大企業の賃上げが中小企業の賃上げに結びつくように、「国民春闘」と呼ばれる一斉行動も行われてきた。大企業の賃上げ相場が明瞭だからこそ、中小企業にもそれを波及させようという労使交渉が活発になるということだ。
だが、近年では、「春闘」の賃上げの波及効果はほとんど消失してしまっている。その象徴が、パターンセッターであるはずの自動車産業のトップ企業であるトヨタ自動車グループの労使が、2018年以来、「春闘」の賃上げ額を示さなくなったことだ。これでは、賃上げ相場は形成されず、「春闘」は本来の機能を発揮できない。
かつては、「春闘」の賃上げ相場は、ある種の「社会規範」であり、中小企業も相場を見ながら自社の支払能力とも相談しながら賃上げを行っていた。労働組合のない零細企業でも、新規採用や労働者の定着のためにも、賃上げ相場を無視することはできず、一定の賃上げを行う企業も多かったという。
しかし、現在の「春闘」にそうした力は期待できない。労働組合に組織されていない多数派の労働者(労働組合の組織率は約17%である)にとって「春闘」は「他人事」に見えているし、実際にも「他人事」なのだ。
特に深刻な非正規雇用の生活
特に深刻なのは、日本の雇用労働者の約4割を占める非正規雇用労働者である。
正社員と非正規雇用労働者の賃金(時給ベース、2019年時点)を比較すると、正社員が時給1976円に対して非正規(フルタイム)では1307円、非正規(パートタイム)では1103円となっている(賃金構造基本統計調査)。非正規の賃金は正社員の賃金の6割~7割の水準であり、地域にもよるが最低賃金ギリギリの給与で働いていることがわかるだろう。
こうした非正規雇用労働者こそ、労働組合による「春闘」賃上げを必要とすることは疑いない。もとより最低賃金ギリギリで働いているところに、インフレが襲っている現在、生活に困窮している非正規雇用労働者も非常に多いはずだ。だが、非正規雇用労働者の組織率は正社員と比べても低い。たとえば、パートタイム労働者の推定組織率は 8.7%となっており、正社員の半分以下である。
さらに、正社員主体の企業内労組では非正規雇用労働者が組織されていたとしても、非正規雇用労働者の利害が十分に代表されていないケースが多くあることも指摘されている。組合費は徴収されるのに、非正規雇用労働者の賃金アップは交渉してくれないという相談は、私が代表を務めるNPO法人POSSEの相談窓口にもよく寄せられる。
このように、官製春闘とは区別されるところの、「既存の春闘」によっても、非正規雇用労働者の賃金アップは実現しそうにないのだ。
「非正規春闘」と最賃引き上げを求める動き
だが、何も手が打たれていないということではない。この間で、非正規雇用労働者の賃上げのための新たな動きもいくつか出てきている。
まず「非正規春闘」というキャンペーンだ。非正規雇用労働者の相談・加入の受け皿となっている各地の個人加盟労組(ユニオンと呼ばれる)が、今月、「非正規春闘2023実行委員会」を立ち上げ、非正規雇用労働者の賃金を一律10%引き上げるよう求める方針を決定したという。
10%というと、要求が過大に見えるかもしれないが、忘れてはならないのは、非正規雇用労働者の賃金は、非正規(パートタイム)が1103円、非正規(フルタイム)が1307円という低い水準にあるということだ。時給1103円の労働者が10%賃上げを実現しても、時給1213円にしかならない。
「非正規春闘2023実行委員会」に参加するユニオンは、すでに、大手企業を中心に、飲食店や学習塾・語学学校、コールセンターなどを運営する会社に「春闘」として賃上げ要求を申し入れているという。いずれも非正規雇用労働者を多く抱える産業であり、そうした産業の大手企業から賃上げ回答を引き出し、非正規雇用労働者の「賃上げ相場」を形成しようという試みだ。
こうした動きは、幅広い賃金相場の引上げを狙ったかつての国民春闘と類似しおり、日本の伝統的春闘の良い意味での発展版ということができる。
また、「春闘」とは別に、最低賃金の引き上げを目指すアクションも始まっている。エキタス(AEQUITAS)という市民団体が、昨今のインフレをうけて、最低賃金1500円を求めるオンライン署名キャンペーン(#最低賃金1500円 をすぐに実現してください!)を始めている。エキタスは今後、厚生労働省への署名提出や最低賃金1500円の実現を訴えるデモ(2月末開催予定という)を計画している。
言うまでもなく、最低賃金の引き上げは、最低賃金ギリギリで働いている多くの非正規雇用労働者にとって即時の賃上げを意味する。法定の最低賃金を引き上げれば、「お願い」よりも強制的に、すべての労働者の賃金を引き上げることができる。
昨年エン・ジャパンが行った調査(2022年9月22日)によると、昨年の最賃引き上げの結果、「最低賃金を下回るため、最低賃金額まで引き上げる」と回答した企業が24%であり、「最低賃金を下回るため、最低賃金額を超えて賃金を引き上げる」も17%に上ったという。さらに、「最低賃金は上回っているが、賃金を引き上げる」という企業も14%あった。
最賃の引き上げは最賃以上で働く労働者にも波及するするのだ。さらに、最賃引き上げの影響は中小企業に限らない。同調査では、従業員1000人以上の企業でも「最低賃金を下回るため、賃金を引き上げる」企業が64%と最も多くなっている。
おわりに
世界的に見れば、インフレへの対抗としてストライキが吹き荒れている。イギリスでは医療関係者を中心に、過去30年間で最大規模のストライキが行われている。また、アメリカでは大手有力紙ニューヨークタイムズの記者1000人が40年ぶりにストライキに突入したほか、政府の介入によって直前で中止となったが、貨物鉄道の労働者も賃上げを求めてストライキを計画していた。
さらに、カリフォルニア大学では大学院生や講師ら4万8000人が賃上げを求めてストライキを行い、クリスマス休暇が始まる直前に締結した労働協約によれば、25パーセントから80パーセントの賃上げや育児休暇を勝ち取った。
世界的な動きを見ても、まともに生活できる水準にまで賃上げを実現するには当事者である労働者の要求なしに生活を賄う水準にひきあがることは難しいだろう。だからこそ、ILOをはじめとした国際条約でも労使交渉の権利を定めている。今日の状況を踏まえれば、生活のために賃上げを要求することはきわめて正当だと思われる。活発な要求があってこそ「健全な労使関係」だといえる。
日本においても、「お願い」から「要求と交渉、そして妥協(労働協約)」という現代国家の当たり前の労使関係を回復していくことが重要だ。
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