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NBA選手になる夢の実現を目前に、コート上で倒れてそのままこの世を去った若者がいた…

青木崇Basketball Writer
チームの中心選手だったギャザーズ(44) 写真提供:LMU Athletics

 1月26日にヘリコプターの墜落事故により、コービー・ブライアントが亡くなったニュースは、全世界に衝撃と悲しみをもたらした。NBAで偉大な功績を残したスーパースターの死に比べたら、インパクトは小さいかもしれない。しかし、今からちょうど30年前の1990年3月4日、NCAAでプレーするバスケットボール選手が試合中に倒れ、そのまま亡くなってしまった出来事は、当時大学生だった筆者の心に突き刺さった。

 その選手の名はエリック“ハンク”ギャザーズ

 ロヨラ・メリーマウント大に在籍していたギャザーズは身体能力の高さを武器に、1988-89シーズンに得点とリバウンドの平均でNCAAディビジョン1で1位になった201cmのパワーフォワード。ギャザーズと同じフィラデルフィアで生まれ育ち、高校、大学と一緒にプレーしてきたガード、ボー・キンブル(上の写真の背番号30)とのワンツーパンチは、1980年にロサンジェルス・レイカーズをNBA制覇に導いた実績のあるポール・ウエストヘッドコーチの下で才能を一気に開花させる。ウエストヘッドコーチのシステムはアップテンポで走り続けるプレースタイルで、1989−90シーズンにおけるチームの1試合平均得点が122.4。4年生時にギャザーズが29点、キンブルが35.3点のアベレージを残すなど、2人とも将来のNBA選手として注目されていた。

写真提供:LMU Athletics
写真提供:LMU Athletics

強烈なアリウープダンク後に起きた悲劇

 ところが、1989年12月9日のカリフォルニア大サンタバーバラ校戦で、ギャザーズは心拍の異常が原因で試合中に倒れてしまう。診察後の投薬治療で3試合休んだ後に復帰したものの、副作用のせいかプレーの質が落ちていく。

 その後、投薬量を減らしたことによってギャザーズは本来のプレーを取り戻すとともに、ロヨラ・メリーマウント大は13勝1敗の成績でウエストコースト・カンファレンスのレギュラーシーズンを制覇。NCAAトーナメント進出を目指したカンファレンス・トーナメントもゴンザガ大との初戦を121対84で快勝すると、準決勝の相手はポートランド大だった。

 3月4日にホームコートであるジャーステン・パビリオンで行われた試合の前半13分34秒、ギャザーズは速攻から強烈なアリウープダンクを叩き込む。ロヨラ・メリーマウント大のリードが12点に広がった直後、信じられないような事態が発生する。

 ハーフライン付近でディフェンスの態勢に入ろうとした直後、ギャザーズは突然倒れたのだ。すぐに立ち上がろうとしたものの、その直後に呼吸が停止する状態に陥ると、急送された病院で亡くなったことが発表される。享年23歳。試合を観戦していた弟のデリックは、ESPNが制作したドキュメンタリーの中で「兄は起き上がろうとした。“横たわっているわけにはいかないんだ”と言ったけど、それが最後の言葉だった」と語っていた。

大親友キンブルが見せたギャザーズへの思いを込めたフリースロー

 NBAドラフト1巡目の上位で指名される可能性が高いと評価されていたギャザーズの死は、本当に衝撃的だった。筆者はライブでなく後日見ることになったのだが、倒れる瞬間の映像は「見たくない人は見ないほうがいい」と言えるくらい、ショッキングという表現が当てはまる。

 この出来事によってウエストコースト・カンファレンス・トーナメントはキャンセルとなり、レギュラーシーズンを制したロヨラ・メリーマウント大がNCAAトーナメント出場権を獲得。大学側は試合に出続けるか否かで迷ったものの、NCAAトーナメント出場の決断を下すと、キンブルを軸にチームの結束力がさらに高まった。

 NCAAトーナメントでの下馬評は決して高くなかったロヨラ・メリーマウント大だが、1回戦でニューメキシコ・ステイト大、2回戦で前年の王者ミシガン大、地区準決勝でアラバマ大を倒し、ファイナルフォー進出まであと1勝のところまで勝ち上がる。優勝したネバダ大ラスベガス校に101対131のスコアで敗れたものの、ロヨラ・メリーマウンド大の快進撃は1990年のNCAAトーナメントを大いに盛り上げた。

 得点源のキンブルは幼いころからNBA選手になる夢を一緒に追い続けたギャザーズへの思いを込めて、試合最初のフリースローを左手で打った。その理由は、ギャザーズがフリースローを苦手としており、大学に入って以降利き手の右手から左手で打つことに変更していたから。キンブルがニューメキシコ・ステイト大との初戦で決めたシーンは、アリーナに駆けつけていた観客だけでなく、テレビ中継を見ていた多くの人の涙を誘った。

写真提供:LMU Athletics
写真提供:LMU Athletics

倒れたギャザーズのそばには後にNBA制覇を成し遂げたコーチが選手としてコートにいた

 ギャザーズにとって最後の対戦相手となったポートランド大には、マイアミ・ヒートで2度NBA制覇を成し遂げたヘッドコーチ、エリック・スポールストラが2年生のポイントガードとして在籍。ギャザーズが倒れた場所から数mのところで、インバウンドパスをもらおうとしていたスポールストラは5年前、その瞬間を「ゾッとした」とロサンジェルス・タイムズ紙に対してコメントしている。ポートランド大はギャザーズが倒れた後にロッカールームに下がると、試合がキャンセルになるまで3時間ほど待機させられたという。

 そんな経験があるスポールストラが指揮するヒートには、チームの中心選手として活躍中だったクリス・ボッシュがいた。2016年のNBAオールスター・ウィークエンドの直前、ボッシュはふくらはぎの故障を当初の理由に欠場することになったが、後に深部静脈血栓症が発覚。2016−17シーズンの前に行われた身体検査にパスできず、パット・ライリー社長が出場不可を宣告した経緯には、スポールストラの辛い経験が少なからず影響していたと想像できる。

 30回目の命日が間近となった2020年2月29日、ロヨラ・メリーマウント大は“ハンクの家”という愛称があるジャーステン・パビリオンの前にギャザーズの銅像を建築して公開。弟のデリックは大学が出したプレスリリースの中で、「ロヨラ・メリーマウント大がハンクを復活させ、キャンパスに連れてきてくれたことに感謝しています。それは私たち家族にとって非常に特別なものであり、この像がLMUのホームにずっとあることを光栄に思います」とコメントした。死後に裁判で争うこともあったが、キャザーズ家とロヨラ・メリーマウント大の間に良好な関係が構築されていることを筆者はうれしく思う。と同時に、ブライアントが亡くなる30年前、このような悲劇があったことを日本のバスケットボールファンに知ってもらえたら幸いである。

Basketball Writer

群馬県前橋市出身。月刊バスケットボール、HOOPの編集者を務めた後、98年10月からライターとしてアメリカ・ミシガン州を拠点に12年間、NBA、WNBA、NCAA、FIBAワールドカップといった国際大会など様々なバスケットボール・イベントを取材。2011年から地元に戻り、高校生やトップリーグといった国内、NIKE ALL ASIA CAMPといったアジアでの取材機会を増やすなど、幅広く活動している。

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