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青木龍史がプロになると決意したきっかけは、NBAのスター選手になった高校時代のチームメイト

青木崇Basketball Writer
ブランソンから「お前がベストシューターだ」と言われた瞬間 写真提供/青木龍史

 NCAAが理想とする文武両道を最高レベルで実践した選手として、今季から愛媛オレンジバイキングスでプレーする青木龍史の存在を知ったのは2019年。3月にNBA取材で渡米した際にシカゴで初めて会い、後日改めての取材で1本の記事を掲載した。

 そんな青木があるNBA選手と高校時代にチームメイトだったことは、今年になって初めて知ることになる。その選手とは、ニューヨーク・ニックスで大黒柱となったジェイレン・ブランソン。青木は7歳で父親の仕事の都合でイリノイ州に移住したが、2012年にシカゴ郊外にあった自宅から近い公立校のスティーブンソン高校に進むと、1学年上にブランソンがいたのである。

「初めてプレーを見たのは僕が中学2年生で彼が3年生。ジェイレンも中学2年のときに(シカゴへ)引っ越してきたんです。次の年にスティーブンソンに入る中学生たちで作られたチームがあるんですけど、ジェイレンのフレーとか練習とかを見て、この人すごいなっていうのが最初でした。初めて喋ったのは僕が高校1年生になってからで、彼が2年生。バスケットボール部でコンディショニングといったオフシーズンのトレーニングをするんですけど、そのときに僕は結構足が速かったんで、“お前1年生か”みたいな感じが最初の会話でした。緊張しすぎてあまり喋れなかったですね…」

 アメリカの高校バスケットボールは、日本のように誰もがメンバーになれるわけではなく、トライアウトに合格して初めてチームの一員になれる。スティーブンソンは生徒数が約4000人と非常に大きな高校で、メンバーに入るための競争が非常に激しい。

 そんな状況の中、青木は1年生のチーム(4軍)から高校のキャリアをスタート。2年生チーム(3軍)のプレーオフ期間中にジュニア・バーシティ(2軍)に昇格し、3年生になるとバーシティ(1軍)のメンバーとしてプレーするようになった。普段の練習からブランソンとマッチアップする機会があり、そこで自身の存在をアピールすることは、バーシティのロスターに入るうえで欠かせなかった。青木は当時をこう振り返る。

「正式にフルシーズン(でバーシティのメンバーに)入ったのは3年生(日本の高2)からです。プロと同じで、練習もスタメンの5人を相手にプレーするんですけど、“絶対ジェイレンにつきたい”とコーチに言ってました。毎回彼とマッチアップしていましたが、最初は全然ダメだったんです。でも、少しずつ止められるようになり、3年生の最後には僕がスタメンのチームで練習したり、試合も出たりという感じでやってきました。彼とマッチアップするだけでも、すごく成長できました」

 練習で一生懸命にマッチアップし続けてきたことで、青木はブランソンからのリスペクトを得られるようになった。バーシティのメンバーになったばかりのころは、勝負の行方が決まった時間帯だけの出場だったが、シュート力で一目置かれるようになる。その後、青木の出場機会が増えたのは、元NBA選手で現在ニューヨーク・ニックスのアシスタントコーチを務めているブランソンの父リックが、練習や試合を見ていたことも大きかった。

「ジェイレンのお父さんは結構練習とか試合を見に来るんです。なんか冗談で“もっとこいつを出さないといかんよ”みたいな感じになって、彼のお父さんからも何か好かれたり、ジェイレンからも“お前いいな”みたいな感じになりました。(コーチも)ちょっと試合中に出してみるかという感じになって、少しずつリスペクトされていた感じですね」

青木に指示を出すスティーブンソン高校のパット・アンブローズコーチ 写真提供/青木龍史
青木に指示を出すスティーブンソン高校のパット・アンブローズコーチ 写真提供/青木龍史

 2015年3月、ブランソンを軸にしたスティーブンソン高校は、イリノイ州のクラス4Aでチャンピオンシップを獲得。頂点に至るまでの1年間は、試合途中にベンチから出てくるシックススマンとしてプレーしていた青木にとって、一生忘れることのない思い出になっている。

「今でもなんか鳥肌立つくらい、すごい1年だったと思います。ジェイレンがいなかったらそんな経験できなかったです。2年前(2013年)はジャバリ・パーカー(2014年のNBAドラフト1巡目2位指名)に負けて2位、その次の年(2014年)はジャリル・オカフォー(2015年のNBAドラフト1巡目3位指名)がいたウィトニー・ヤングに負けて3位だったので、最後の年にやっと優勝できたみたいなプロセスがありました。

 僕は負けた当時のメンバーじゃなかったけど、その試合を見てきましたし、最後の1年は僕もチームの一員としてやってきました。みんなの努力、彼の取り組み方、リーダーシップで何かをつかめました。周りやメディアとかは“無理だ”とか、スティーブンソンは1回も優勝したことがなかったし、へイターズ(酷く嫌う連中)みたいなのもたくさんいたから、それを覆した瞬間はすごかったですね」

スティーブンソン高校は2015年にイリノイ州のクラス4Aでチャンピオンシップを獲得 写真提供/青木龍史
スティーブンソン高校は2015年にイリノイ州のクラス4Aでチャンピオンシップを獲得 写真提供/青木龍史

 ブランソンと一緒にプレーしたたことは、青木がバスケットボール選手としての自信を得られたことでも大きな意味があった。ライバル校との試合中にかけられた言葉は、特に忘れられない出来事として青木の記憶に強く残っている。

「同じカンファレンスのライバルにザイオン・ベントンというチームがあるですけど、僕が試合に出た時にちょっと躊躇していました。緊張して何かわからない状況だったけど、だれかがフリースローを打っているときにジェイレンが声かけに来てくれて、“お前はこのジムでベストシューターなんだから、もっと自信を持て!”と言ってくれたんです。

 “俺がベストシューター?”と返したら、ジェイレンは“いや、俺はベストスコアラーだ。お前はベストシューターだから自信を持て!”と言ってくれたのが一番印象的でした。もちろん、優勝した試合とか、100点ゲームで100点目を僕が決めたとき、ジェイレンがベンチですごく喜んでくれたのもすごかったけど、あの時にかけてくれた言葉はすごく印象的でした。チームメイトの何かをどれだけ引き出せるのか? みたいな感じで声をかけてくれたので、すごい自信になりました」

 スティーブソン高校卒業後、青木はインディアナ州にあるNCAAディビジョン3のローズ・ハルマン工科大学に進学し、バスケットボールをしながら生体医工学の学位をわずか3年で取得。評定平均値が4点満点で3.91という成績でのアカデミック・オールアメリカン選出は、正に努力家の証と言えるもの。しかし、プロのバスケットボール選手になりたいという強い思いは、高校時代にブランソンと一緒にプレーできたことによって生まれた。

「ジェイレンと一緒にやっていなかったら、僕は多分プロでやってないだろうと思えます。一番リスペクトしているのが彼の取り組み方です。イリノイ州でランク1位、高校シニア(日本の高3)の時は全米10何位とかという選手が公立高校で一番ハードに練習し、練習後もお父さんが来て1対1で自主練しているを見て、こんなにうまい人がここまでやるんだと思いました。その姿勢、謙虚さというのがすごく印象的で、僕も高校、大学、プロになってもそういうところを持ち続けていきたいと思っていました」

 また、逆境に直面した時に見せたブランソンの姿勢も、青木がいい意味で影響された理由の一つだ。

「よく覚えてるのは、負けた試合の後です。夜の10時くらいに終わってから会場を出て、その試合直後か翌日の早朝に(高校の)体育館に来て、ずっとシューティングをしていました。彼が口にしている“The magic is in the work(魔法は仕事の中にある)”を本当に体現していますし、彼が持っている自信とプレーも、すべては“the work”の中にあると今でも言い続けています。彼はあのころから努力努力で(逆境を)乗り越えてきたと思います」

 信州ブレイブウォリアーズの特別指定選手としてプロキャリアをスタートさせた青木は、岩手ビッグブルズでは1試合12本の3Pショット成功のB3史上最多記録を達成。その後はB1の大阪エヴェッサ、京都ハンナリーズと渡り歩き、今季から出場機会を求めてB2の愛媛オレンジバイキングスへ移籍した。

 京都での2シーズン、青木はなかなか試合に出られない苦しい時期があった。しかし、身長も身体能力も決して高くないブランソンが、NBA選手として成功するまでのプロセスを間近で見られたことは、自身にも当てはまると実感。近い将来、国際試合でブランソンと同じコートで試合するを目標に、青木は努力努力の日々を過ごしている。たとえ他人が何と言おうが、その可能性がどんなに低かったとしても…。

今季の青木はB2の愛媛オレンジバイキングスで飛躍を目指す (C)B.LEAGUE
今季の青木はB2の愛媛オレンジバイキングスで飛躍を目指す (C)B.LEAGUE

Basketball Writer

群馬県前橋市出身。月刊バスケットボール、HOOPの編集者を務めた後、98年10月からライターとしてアメリカ・ミシガン州を拠点に12年間、NBA、WNBA、NCAA、FIBAワールドカップといった国際大会など様々なバスケットボール・イベントを取材。2011年から地元に戻り、高校生やトップリーグといった国内、NIKE ALL ASIA CAMPといったアジアでの取材機会を増やすなど、幅広く活動している。

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