樋口尚文の千夜千本 第169夜 【没後20年】勅使河原宏という全身「前衛」監督
本格「前衛」を引き受け続けた映画人生
勅使河原宏の没後20年ということを思い出して驚いた。もうそんなに経つのか、ということに加えて、いかにコロナ禍の影響はあるといえども、この周年に事寄せて勅使河原の足跡を回顧する機会がほとんど皆無に近いというのが驚きだった。もっとも逝去直後や没後10年にさえ、そんなにまとまったレトロスペクティブはなかったと記憶する。そんななかシネマヴェーラ渋谷が「没後20年 アートを越境する—勅使河原宏という天才」という映画作品の全貌に迫る特集上映を企画して気を吐いている。
この特集上映には、主要映画作品は全て揃うのはもとより、草月会の協力によりなかなか観ることのできない初期習作や万博の展示映像、テレビ映画、草月インナーの記録映像まで含まれており、なかなかこの範囲に及ぶ企画上映も今後望めないはずである。そして今回上映されるこれらの作品を総覧してみると、「前衛の寵児」として60年代を通して喝采を浴びた勅使河原がその時代の風俗的な熱気によってのみ支えられた「流行監督」ではなかったことが確認されるだろう。
勅使河原宏はいけばなの草月流の初代家元、勅使河原蒼風の長男として1927年に生まれ(この年は草月の創流の年でもある)、戦中に東京美術学校で小林古径から日本画を、梅原龍三郎から洋画を学んだ後、亀井文夫の記録映画の制作を手伝い映画づくりの知識を得て、1950年代後半は数々の記録映画を習作的に手がけた。そして1962年、自主製作した安部公房原作の『おとし穴』が創立直後のATGで(日本映画としては初めて)配給公開された。こうして勅使河原の本格的な監督デビューは、一連の「松竹ヌーヴェル・ヴァーグ」が輩出した後になるが、年齢的にはやや上の今村昌平とほぼ同齢であった。
この初の劇映画『おとし穴』で勅使河原は早々に評価され、1964年の安部公房原作『砂の女』は第17回カンヌ国際映画祭審査員特別賞、同年度キネマ旬報ベスト・テン第一位ほかを受賞して絶賛され、代表作となる。この後、66年の『他人の顔』、68年の『燃えつきた地図』と安部公房原作の映画作品で同時代の高い評価を集め続けるも、72年の『サマー・ソルジャー』の後は劇場用映画の制作を中断、79年のテレビ映画『新・座頭市Ⅲ』や84年の記録映画『アントニー・ガウディ』などをはさんで銀幕帰還は1989年の『利休』を待つことになる。一方では1979年の初代蒼風の逝去に伴い二代目家元となった妹・霞が翌80年に急逝したために、宏は三代目家元を引き受けねばならなかった。さらに陶芸など創作活動を意欲的に広げて行ったため、映画から遠ざかる理由はいくつもあったのだが、60年代の華々しき「前衛」監督ぶりを知る者にはその映画作品が待望された。
しかし、もう勅使河原が映画を撮ることはないものと思われた1989年、まさにバブル期の映画出資ブームに乗って久々の監督作『利休』が発表され、92年に『豪姫』を撮った後、2001年に74歳で鬼籍に入る。この晩年の端正で贅沢な意匠に満ちた時代劇諸作は60年代的アヴァンギャルドを期待した観客をとまどわせたが、この裏切りがまた自らを意外なかたちに更新し続ける勅使河原の「前衛」体質の面目躍如ではなかったか。そしてさらに、最晩年に映画化を企図していた柳美里原作の『タイル』は、さらにまた反転してどこか『砂の女』『他人の顔』の延長にあるかのごとき低温硬質な美意識をたたえた思索的ミステリであって、実は勅使河原はここでまた最後の裏切りをたくらんでいたふしがある。
60年代の絶頂期の勅使河原のアヴァンギャルド表現にのみ注目して、勅使河原の「前衛性」を定型的、風俗的なものと矮小化する見方は何気なくも多い気がするが、その生涯のフィルモグラフィを鳥瞰すれば勅使河原の映画人生は最後の最後までどっぷりと「前衛」を生きていたと言えるだろう。