宇喜多直家が「梟雄」と恐れられた、少年期のエピソードとは
優秀な人は子供の頃から優秀であるが、悪い人は子供の頃から悪かった可能性がある。宇喜多直家は「梟雄」と恐れられ、それは少年期のエピソードにあらわれているので、紹介することにしよう。
備前を代表する戦国大名の宇喜多直家は、後世に「梟雄」と称され、蛇蝎のごとく嫌われていた。そのエピソードは、少年期から確認することができる。
父の興家を亡くした直家は、母方の伯母に養われていた。ところが、その伯母は直家が父の興家に似て、凡愚であることを嘆き悲しんだという。伯母としては、愚かな興家の恥をそそぎ、何とか宇喜多氏再興を願っていたのだから、無理からぬところだろう。
伯母の嘆きを知った直家は、どのように考えていたのだろうか。直家は、まず父母の代わりに自分を育ててくれた伯母に対するお礼を述べ、なぜ自身が愚かな振りをしているのかを次のとおり説明している。
祖父(能家)の敵である嶋村豊後守(浦上宗景の家臣)は、威勢を誇っています。彼がもし、私(直家)を人並みの力量を持つと察知すれば、のちの面倒を避けるために、探し出して殺すことでしょう。
それゆえに、私(直家)は愚かな振りをして、時機到来を待っているのです。私(直家)の母は天神山城主浦上宗景の侍女として仕えており、この縁をもって嘆訴すれば、必ず奉公を認めてくれます。そうすれば、嶋村もむやみに私(直家)を討つことができません。
直家はいかなることがあっても、必ず父祖伝来の地に帰り、祖父の仇を討つことを伯母に語っていたのだ。この話は、後世に成った史書に取り上げられている。
この後、直家は宗景の侍女だった母のおかげで、無事に奉公が叶った。直家の母は大変利発な女性で、たびたび宗景に直家を取り立てるよう訴えたという。最初、宗景は小禄で直家を迎えたが、その武功により乙子城主としたのである。
とはいえ、僅か10才前後の子供が、ここまでの考えを持っていたとは思えない。年代的な矛盾もある。後世に創作されたものと考えられるが、直家の機知を語るうえでユニークなエピソードである。こうして直家には、「梟雄」というレッテルが貼られたのだ。