実は養子に出されていたという、3人の戦国武将とは?
今も養子の制度はあるが、戦国時代も同様にあった。特に、戦国大名の家督継承に際しては、養子を迎えて当主に据えることがあったので、紹介することにしよう。
◎大村純忠(1533~1587)
キリシタン大名として知られる大村純忠は、有馬晴純の子として誕生した。天文7年(1538)、純忠は大村純前の養子となり、その12年後に大村家の家督を継いだ。純前には子がいたが、後藤氏の養子に出され、後藤貴明と名乗ったのである。
純忠がキリスト教に入信したのは、永禄6年(1563)のことである。以後、大村氏の領内ではイエズス会の宣教師により、キリスト教の布教が行われた。天正15年(1587)、純忠は亡くなったが、死の間際に来世の話をしてほしいと宣教師に懇願したという。
◎立花宗茂(1567?~1643)
立花宗茂は、高橋紹運の子として誕生した。天正9年(1581)、宗茂は立花鑑連の養子となった。鑑連は後継者たる実子がいなかったので、紹運に懇願したといわれている。のちに宗茂は豊臣秀吉の旗下に入り、各地を転戦したのである。
しかし、関ヶ原合戦で宗茂は西軍に与して、敗北。以後は、陸奥国棚倉(福島県棚倉町)に1万石を与えられた。大坂の陣では徳川方に味方し、柳川(福岡県柳川市)に10万9千石を与えられた。こうして宗茂は、見事に復活に成功したのである。
◎蘆名盛隆(1561~1584)
蘆名盛隆は、二階堂盛義の子として誕生した。盛義が蘆名盛氏に敗れると、永禄9年(1566)に盛隆を人質として差し出した。天正2年(1583)、盛興(盛氏の子)が後継者のないまま亡くなると、盛隆は盛興の残された妻と結婚して盛氏の養子となり、蘆名家の家督を継いだのである。
その後、盛隆は上杉景勝と距離を置き、織田信長と結んだ。天正10年(1582)以降、盛隆は景勝と対立する新発田重家を支援するなどした。盛隆が亡くなったのは、天正12年(1574)である。家臣の大庭氏によって、殺害されたという。