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酒が大好きだったといわれる3人の戦国武将の逸話とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
真田信繁。(写真:イメージマート)

 酒は少しならば健康にはいいが、飲み過ぎると体を壊してしまう。ところで、戦国時代には、酒が大好きだったという武将がいたので、そのうち3人のエピソードを取り上げることにしよう。

◎真田信繁(1567~1615)

 真田信繁は、昌幸の子として誕生した。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、信繁は昌幸とともに西軍に与して敗北し、九度山(和歌山県九度山町)での逼塞を余儀なくされた。慣れない土地での生活で、親子ともども苦労が絶えなかったに違いない。

 信繁は気を紛らわせるためか、焼酎を好んでいた。信繁の書状によると、壺に焼酎を詰めてほしいこと、こぼれないように壺の口をよく締め、その上に紙を貼ってほしいと懇願したことがわかる。この書状により、信繁が酒好きだったことがわかる。

◎福島正則(1561~1624)

 福島正則は大酒飲みとして知られ、その逸話には事欠かない。あるとき黒田長政の使者として、母里友信が来訪したので酒を勧めた。友信も大酒飲みだったが、使者としての役目があったので断った。すると、正則は友信が酒を飲んだら、好きな褒美を取らせると述べた。

 そのうえで、「黒田武士は酒に弱く、飲んで酔ったら役に立たない」と挑発したのである。すると、友信は酒を一気に飲み干すと、名槍「日本号」を所望した。正則は大変驚いたが、今さら前言を翻すことができず、友信に「日本号」を与えたのである。

◎小早川秀秋(1582~1602)

 慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の際、小早川秀秋は西軍を裏切って、東軍を勝利に導いた。秀秋の裏切りにより、死に追いやられた大谷吉継は恨み、秀秋は吉継の亡霊に悩まされ狂死したというが、これは俗説として否定されている。

 当時の記録によると、秀秋は大変な酒好きで、連日のように飲酒していたという。おそらく飲酒量も半端じゃなかったのだろう。その結果、秀秋はアルコール中毒になり、病没したという説が有力視されている。秀秋の死後、小早川家は改易された。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書など多数。

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