藤原伊周の子で「荒三位」と恐れられた藤原道雅とは、いったいどんな人物だったのか?
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、藤原伊周の子の藤原道雅が登場した。道雅とは、いったいどんな人物だったのだろうか。その生涯を追いつつ、考えてみることにしよう。
藤原道雅が伊周の子として誕生したのは、正暦3年(992)のことである。当時、道雅の祖父の道隆が健在で、中関白家と称される道隆の系統は、黄金時代の真っただ中にあった。
3年後、道隆とその弟の道兼が相次いで没すると、後継者の座を射止めたのは伊周ではなく、内覧に任じられた道長だった。以後、伊周は道長と対立の様相を見せるが、長徳の変で失脚した。物心ついた頃の道雅は、没落という悲哀を味わったに違いない。
長徳の変後、伊周は許されたものの、往時の威勢はすっかりなくなっていた。とはいえ、道雅は父の悪影響を受けることなく、長保6年(1004)には従五位に叙爵した。以降、比較的順調に出世したのである(従三位まで昇叙した)。
ところで、道雅は性格が粗暴で、たびたび暴力沙汰を起こしたので、人々は「荒三位」、あるいは「悪三位」と称して恐れた。道雅は、いったいどのような問題を起こしたのだろうか?
万寿元年(1024)12月、上東門院女房(花山法皇の皇女)の野犬に食われた遺体が発見された。夜中に何者かによって殺害されたらしい。早速、検非違使が捜査を開始すると、翌年3月になって、法師隆範が容疑者として捕らえられた。
法師隆範を尋問すると、7月になって、道雅の命により上東門院女房を殺害したと自白した。この報告を耳にした藤原道長らは驚いたが、しばらくして盗賊の頭目が上東門院女房殺しの犯人であると自首してきた。結局、事件の真相はわからないままで、記録を欠いている。
その影響もあったのか、万寿3年(1026)に道雅は左近衛中将兼伊予権守を罷免され、右京権大夫(正五位上相当官)に降格処分となったが、その後も道雅は乱闘事件を起こすなどした。
結局、道雅は従三位から昇進することがなかったが、それは喧嘩早いこと、上東門院女房の殺害に関与した嫌疑が影響したのかもしれない。道雅が亡くなったのは、天喜2年(1054)のことである。
主要参考文献
繁田信一『殴り合う貴族たち 平安朝裏源氏物語』(柏書房、2005年)