落語家の始祖といわれ、豊臣秀吉に仕えたという曽呂利新左衛門は実在したのか!?
今も会社などでは、仕事はイマイチでもムードメーカーの社員がいるかもしれない。落語家の始祖といわれ、豊臣秀吉に仕えたという曽呂利新左衛門もそんなイメージがあるが、実在したのか考えることにしよう。
曽呂利新左衛門といえば、豊臣秀吉が顔が猿に似ていることを嘆いていると、「殿下を慕って、猿のほうが似せたのです」と述べるなど、頓智を利かせたユーモアなどで知られている。
曽呂利新左衛門は落語家の始祖といわれ、秀吉に御伽衆として仕えたといわれている。御伽衆とは主君の身辺にあって、武功話などをして喜ばせていた。秀吉に仕えた大村由己は、よく知られている。しかし、曽呂利新左衛門には、あまりに謎が多い。
曽呂利新左衛門が発給、あるいは受給した書状の類はない。曽呂利新左衛門が登場するのは、『絵本太閤記』、『堺鑑』、『和泉名所図会』、『甲子夜話』といった、江戸時代に成立した編纂物ばかりである。そのような事情から、曽呂利新左衛門の実在は疑わしいとされている。
曽呂利新左衛門の実名は、杉本甚右衛門(または彦右衛門、新左衛門など)といわれており、誕生したのは三河国、あるいは和泉国という説がある。
堺(大阪府堺市)に出た曽呂利新左衛門は、刀の鞘を作ることを生業とした。その一方で和歌に優れており、能筆家でもあった。茶道の造詣も深かったといわれている。
秀吉が曽呂利新左衛門を登用したのは、話術が優れており、頓智が冴えわたっていたからだった。それゆえ、曽呂利新左衛門は秀吉からの信任が厚く、重宝されるようになったのである。
曽呂利新左衛門と秀吉との関係は、江戸時代に成立した『曽呂利狂歌咄』、『曽呂利物語』に描かれている。しかし、それらの話の中には、明らかに創作されたものもあるので、内容は疑わしいとされる。
『曽呂利物語』によると、秀吉は曽呂利新左衛門に「おどろおどろしきこと」を話せと命じたので、毎日10編の話をし、それを近習の者が書き留めたと伝わっている。とはいえ、それらの話は荒唐無稽で信が置けないので、やはり単なる創作だろう。