ミャンマーとバングラデシュの「ロヒンギャ帰還合意」:「強制収容所」への道は開くか
11月23日、バングラデシュとミャンマーの両政府はバングラデシュ国内にいるロヒンギャ難民の帰還で合意。ミャンマー、ラカイン州の隣に位置するバングラデシュには、ミャンマー軍や過激派仏教僧の迫害を逃れた約60万人以上のロヒンギャが流入しているとみられます。
その前日の22日には米国国務省がロヒンギャ問題を「民族浄化」と呼ぶなど、ミャンマー政府やそれを率いるアウン・サン・スー・チー氏への国際的な批判も高まってきました。今回の合意は、国際的な批判を背景に、ミャンマーがバングラデシュに譲歩したものといえます。
しかし、「帰還合意」がロヒンギャ問題の解決をもたらすかは疑問です。そこには国家間の力学によって翻弄される人々の姿を見出せます。
バングラデシュとロヒンギャ問題
人口の7割を仏教徒のビルマ人が占めるミャンマーでは、少数派の宗派・民族に対する抑圧が続いてきました。特にムスリムのロヒンギャは、「国民」としての立場さえ認められていません。ミャンマー軍や過激派仏教徒による襲撃やロヒンギャ難民が国際的な問題となった後も、ミャンマー政府はロヒンギャを「不法移民」と扱うことで「そもそも難民などいない」と抗弁してきたのです。
このミャンマー政府の主張に対して、最も反感を募らせた国の一つが、ロヒンギャ難民の最大の受け入れ国となってきたバングラデシュだったことは、不思議ではありません。
人口の大半をムスリムが占めるバングラデシュでは、ミャンマー政府への批判は広くみられます。その一方で、数多くの難民を受け入れることは、バングラデシュ政府にとって大きな負担です。のみならず、ロヒンギャ問題は「ミャンマーに対するジハード」を呼びかける過激な言説がバングラデシュに広がるきっかけにもなりました。さらに、難民がアルカイダなどのアプローチの対象になるという懸念も高まっています。
この背景のもと、バングラデシュ政府はミャンマー政府に「ロヒンギャは帰国するべき」と要求。国境付近での両軍による合同パトロールなども提案してきました。
「帰還」か、「民族隔離」か
今回、両国政府はバングラデシュ国内にいるロヒンギャ難民を2ヵ月以内に帰還させることで合意。しかし、その他の詳細は明らかにされておらず、疑問の余地の大きいものです。
例えば、ミャンマー政府高官は「1日最大300人のペースでの帰還」に言及していますが、これでは2ヵ月以内の帰還は不可能です。
さらに重要なのは、今回の合意では「帰国した後の条件」に関して不明なままなことです。つまり、ミャンマー政府は帰国したロヒンギャの取り扱い方について何も約束していません。
先述のように、ミャンマー政府はロヒンギャを国民として認めておらず、これによって「不法移民を国外退去させている」と抗弁してきました。市民権が曖昧なまま帰国すれば、帰国したロヒンギャがやはり「不法移民」として一箇所に集められる、「強制収容所」のようなものができることも想定されます。
そのため、詳細が不明なまま帰還合意が結ばれたことに、当事者であるロヒンギャからも不安の声があがっていることは、不思議ではありません。少なくとも、今回の合意によって、ミャンマー国内でのロヒンギャの処遇が改善されるとはいえないのです。
最大公約数的な合意
今回の「帰還合意」は、ロヒンギャ以外の当事者たちの利益を最大公約数的にまとめたものといえます。
バングラデシュ政府の立場からすると、難民がもたらす国内政治上の懸念に対応する必要があります。いわばバングラデシュ政府が優先して求めるのは「ロヒンギャ問題の最終的解決」ではなく「バングラデシュからロヒンギャ難民がいなくなること」といえます。
言い換えれば、いかにムスリム同士であろうとも、バングラデシュ政府の関心は「帰還を促した後にロヒンギャがどんな扱いを受けるか」よりむしろ、「難民を国内から減らすこと」に向かいがちです。その立場からすれば、「ロヒンギャの扱い」に拘泥してミャンマー政府との交渉が難航することの方が不利益といえます。
これに対して、ミャンマー政府の立場からすると、ロヒンギャ排斥を叫ぶ国内世論の手前、「ロヒンギャに市民権を与えて問題の根本的な解決を図ること」は、少なくとも短期的にはほぼ不可能です。また、スー・チー氏をはじめとするミャンマー政府・軍の関係者の発言をみていると、その意思があるようにもみえません。
とはいえ、国際的な圧力がこれ以上加わることは、ミャンマー政府としても避けたいところです。「周辺国にロヒンギャが大規模に流出する事態だけでも改善すること」は「ロヒンギャを一人前の国民として扱うこと」と必ずしもイコールでなく、その扱いを基本的に一任されるのであれば、「ロヒンギャ帰還」はミャンマー政府にとっても受け入れ可能なものといえるでしょう。
ミャンマーの後ろ盾
ミャンマー政府にとっての後ろ盾の乏しさは、この決定に向かわせる一因になったといえます。
軍事政権時代に欧米諸国による経済制裁を敷かれたミャンマーは、それ以来、中国やインド、タイとの関係を深めてきました。これらはいずれも欧米諸国と異なり、人道を理由に制裁を課したりすることには消極的です。
しかし、その一方で、インドやタイにも多くのロヒンギャが流入しており、これに対する批判は両国内でも高まっています。特にインドでは、国内に4万人いるといわれるロヒンギャ難民の扱い方をめぐって国連とも対立するなど、ロヒンギャ問題の飛び火がみられます。何よりインドはバングラデシュの「保護者」であり、ロヒンギャ問題においてもバングラデシュを支持する姿勢が鮮明です。
中国の支持
そのため、ミャンマーにとって頼みの綱は、中国といえます。実際に中国は、国連安保理などで「内政不干渉」を盾にミャンマー政府を擁護してきました。
とはいえ、中国にとってはミャンマーを擁護し続けることもリスキーです。「一帯一路」構想のもとで周辺一帯への進出を加速させる中国にとっては、バングラデシュとの関係も無視できません。
のみならず、東南アジア諸国やイスラーム世界全体でロヒンギャ問題への関心が高まるなか、あくまでミャンマーを支持し続ければ、その他の周辺国との関係悪化を覚悟しなければなりませんが、ミャンマーにそこまでの重要性があるともいえません。この観点から、早くも今年4月に中国の特別代表団がバングラデシュとミャンマーを訪問し、その仲介を申し出たことは不思議ではありません。
最大の後ろ盾である中国の事情や意向は、ミャンマー政府にとっても無視できないものです。「ロヒンギャをバングラデシュからミャンマーに帰還させること」を相互の政府が受け入れるのであれば、今回の合意は「内政不干渉」に抵触するもなく、中国にとっても支持できる範囲のものです。
人道と国益
その一方で、欧米諸国、とりわけロヒンギャ問題を「民族浄化」と呼んだ米国や、この問題を国連安保理で取り上げることを提案していた英国は、今回の合意に関してこれまでのところ沈黙を保っています。
これらは、やはり内外の世論に押されてミャンマー政府への批判を強めてきました。しかし、その一方で「東南アジア最後のフロンティア」と呼ばれる同国への経済進出も目指しています。したがって、これらの政府にとっては、ミャンマー政府を徹底的に追い詰めることより、ロヒンギャが国外に相次いで逃れる事態の収束と、ミャンマー国内の「安定」を優先させる方が得策といえます。
だとすれば、今回の合意はロヒンギャの要望やニーズとはあまり関係なく、関係各国にとって受け入れ可能な範囲の提案が優先された結果といえるでしょう。
絶望の力
今回の合意を踏まえて、近い将来、バングラデシュ政府は国内にいるロヒンギャ難民の送還に着手するものとみられます。その場合、ロヒンギャ難民が帰還を望まなかったとしても、バングラデシュ政府が強制的にそれを行うことは、少なくとも国際法的には問題になりません。バングラデシュは難民の保護を定めた難民条約に署名しておらず、その保護はあくまで「厚意」によるものだからです。
ただし、先述のように、ミャンマー政府が相変わらずロヒンギャを国民として認めていない以上、送り返されたロヒンギャが一カ所に集められ、周囲のビルマ人から隔離した区画での居住を余儀なくされることも想定されます。それは民族・宗派間の直接衝突を避けるという意味で「安定」に資するかもしれません。また、ミャンマー政府との外交関係を優先させるなら、現実的な判断といえるかもしれません。
しかし、それは実質的に「強制収容所」を生み出すことに他なりません。
現状においてロヒンギャの多くの人々が、各国によるミャンマー政府への働きかけを期待したとしても不思議ではありません。しかし、その期待が空を切り、「結局、誰も当てにできず、状況は何も変わらない」という絶望感が支配する状況になれば、それはより暴力的な選択肢が採られやすくもなります。イスラエル軍による占領が長期化し、「国際的に見放されていた」パレスチナで、1980年代末に女性や子どもまでを含む一般パレスチナ人の蜂起(インティファーダ)が広がり、これがハマスなどの武装組織が台頭する契機になったことは、その典型です。
こうしてみたとき、ミャンマー、バングラデシュ両政府の「帰還合意」がロヒンギャ問題の解決に資するかは疑問で、これで幕引きが図られるなら、むしろ状況をさらに悪化させかねないとさえいえるでしょう。