樋口尚文の千夜千本 第196夜 『零落』(竹中直人監督)
だめな男と頑なな女が映画を澄みわたらせる
だめな男、頑なな女を描く映画になぜ傑作が多いのか。それも過度にだめであったり、頑なであったりするほうがさらに映画として実り多きものになるのはなぜか。かねてそんなことを考えていたのを『零落』を観た後に思い出した。推測するに、だめな男、頑なな女は周囲に波紋を呼んでさまざまな悲劇やメロドラマを召喚する一方で、強烈なエゴゆえそれらには決して巻き込まれないので、言わば物語を半分羽織っては脱ぎ捨ててゆく感じなのだ。映画が自らを存在させるための手がかりとして主人公を選ぶならば、こんなあり方の人物はまことに望ましいことだろう。
戦後の虚無が歩いているような『浮雲』の主人公は、彼との関係をどうにも切れないヒロインを一生涯振り回しながら、エゴの塊であるがゆえにメロドラマ的な葛藤が生まれることもなく、ただただ二人して堕ちてゆくばかりである。『アデルの恋の物語』や『天使のはらわた 赤い教室』のヒロインは、さまざまな通り一遍のドラマ的な湿り気を断ち切って、乾いた映画の曠野をとぼとぼ歩いてゆくが、そこは映画そのものの生地のようなすさまじき地帯でもある。
『零落』は、こうしただめな男を描く傑作の系譜に新たに加えられるべき一本だろう。斎藤工扮する主人公・深澤薫は、漫画を創作することにかけては熱意を傾けるが、その至上命題のもと自分の作家としてのわがままは周囲に受け入れられるべきであり、創作に没頭する自分は無条件に珍重されるべきだと思いこんでいる。要約すれば、深澤は仕事には忠実だが、はなはだエゴイスティックで横暴な人物であって、仕事に打ち込んでいれば何でも許されると思っている。そして、そんな自らを客観視して反省することもあり得ない。
映画はこんな深澤が人気だった連載を打ち切られ、一気に周りの人間が離れてゆくところから始まる。今まで自分は仕事一途で敬愛されていると思っていたのに売れないと取り巻きは手のひらを返したように冷淡に去って行き、さらに被害者意識からそんな自分の数少ない理解者だった編集者の妻にさえ大人げなく当たってしまって悪循環が続く。しかたなく自分との関係性がない、しかも客として甘やかしてもらえる風俗嬢ちふゆに救いを求める。このきっと才能はあれど救いなき性格の主人公を斎藤工が自然な感じでみごとに表現し、全てを直観的に見抜いているような謎めいたちふゆに扮した趣里がこれまた絶妙だった。
「仕事と、それにのめる自分に夢中で、他者を慮ることはない」と周囲に諦められきった深澤は、ちふゆとの旅路の涯の海辺で孤独を極める。もはやニヒルの極に達した深澤は、こだわりから解脱したような境地でヒット作を描くのだが、その作品を読んで感動したファンのとある告白にふれた瞬間が、くだんの酷薄な海辺よりも彼の「零落」が極まった瞬間であったかもしれない。
こうして最低さを更新しつづける深澤の彷徨は、物語上はいたく卑屈で悶々としたものであるにもかかわらず、映画の文体はそれこそ成瀬巳喜男よろしく透明感をたたえている。それもこれも過去の彼女にさるとんでもない言われようで愛想を尽かされた、手に負えないエゴイストの深澤が、あらゆる人=ドラマに見限られ、または寄せつけないことの「成果」だろう。竹中直人監督はきめ細かな人物描写、映画と物語の距離への留意など、あいかわらずの繊細な演出術が冴えわたっている。