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昨季7勝47敗4分の最下位球団が"下剋上" サラリーマン監督が変えたものとは?

阿佐智ベースボールジャーナリスト
球団初となる地区優勝に滋賀ブラックスを導いた柳川洋平監督(右)

 今年のプロ野球は、セ・パ両リーグとも前年の最下位チームが「下剋上」を果たし優勝を飾ったが、独立リーグ界でも、「下剋上」があった。ルートインBCリーグ西地区の「万年最下位球団」、オセアン滋賀ブラックスが昨シーズンの7勝47敗4分という記録的な惨敗状態から見事地区優勝を飾り、プレーオフを勝ち抜いて、決勝シリーズまで駒を進めたのだ。残念ながら、リーグ総合優勝はならなかったが、親会社の全面的なバックアップを受けて行ったチーム改革が見事功を奏したかたちだ。そのチーム改革の主役が、今シーズンからチームの指揮をとった柳川洋平監督である。

 柳川監督は、元独立リーガー。高卒後、投手として社会人野球の名門、新日本石油ENEOSに進むが、故障のため3年で引退。その後は一サラリーマンとして社業に専念することになるが、当時まだ21歳。野球をあきらめきれず、クラブチームで1シーズンプレーすると、一念発起し退社。BCリーグの福井ミラクルエレファンツに入団し、2008年、創設されたばかりのチームのエースとして11完投、リーグ最多の169奪三振の成績を挙げ、故障が癒えたことを見せつけると、この年のドラフトで、ソフトバンクから育成指名を受け、晴れてNPB入りを果たした。

4シーズンのNPB生活だったが、支配下登録も果たし、2011年には一軍登板を果たしている。現役引退後は、高校の先輩が経営する建設会社・オセアンに入社。ここで社業とともに、会社がスポーツ支援活動の一環として運営している少年野球(ヤングリーグ)チームの監督として中学生を指導していた。

サラリーマン監督

「僕はまだサラリーマンですよ。要するに配置転換です」

 開口一番、柳川監督はこう自己紹介してきた。現役引退後、8年間は中学生を指導してきたのだが、今回、社命で「プロ野球」の監督になったと言う。

 実は監督への「人事異動」の前にもブラックスへの指導経験はあった。オセアンが滋賀球団の経営にタッチするようになった2年前から「育成コーチ」の肩書で不定期に選手の指導を行っていたのだ。滋賀球団は2017年の創設以来ほとんど最下位が定位置と言っていいくらい低迷を続けていたのだが、今シーズンから本腰を入れて球団改革に乗り出すことを親会社が決定。本社の社長が自ら滋賀に生活拠点を移し、球団社長も兼務の上、チーム強化に乗り出すことになった。その中で、新監督として白羽の矢が当たったのが、柳川だった。

「僕も独立リーグ出身なので、そのときを思い出して、もうちょっとチームを変えることはできるんじゃないかなというふうに正直感じました。必死に取り組めばなんとかなるんじゃないかと」

中学生を指導してきたからこそ見えること

 昨年はコロナ禍にあって、直接の指導はできなかったが、チーム状況については選手から聞いていたという。負けが込む中、チーム内の雰囲気がどん底状態であることも耳に入っていた。NPBの第一線で活躍した現場の指導者と「プロ未満」の選手との間の溝は負けを重ねる中、どんどん広がっていくようだった。そういう中で、本社の総帥から異動を命じられたのは、これまでの中学生への指導経験のゆえであることは、自分が誰よりも感じていた。

「もちろん、目線は独立リーグになって上げました。でも、結構相手が中学生でも厳しめにやっていたんで」

 自らのアプローチを柳川は、こう語る。

「やっぱり勝っていないのが現実ですので、確かに雰囲気が悪くなるわと(笑)。それに独立リーグは練習をやらないというイメージがあるので、そこからでしたね」

 それでも、まず最初に柳川が取り組んだのは、あいさつ、礼儀などの細かい生活指導だった。

「ごみが落ちていても拾わないとか、他人に対する気遣いだとか、そういうところから入りました。高校野球の監督みたいでした。やっぱり人として当たり前のことからスタートした感じですね。中学生の指導をしていて思ったんですが、今は何かと親御さんが出てくるんですよね。当時ははじめ、すごく面倒くさいなと思いましたけれども、本来は子どもと僕とでやってるんで。だから、親御さんには申し訳ないけれども、見守っていてくださいというスタンスは通しました。そういうのを見てきたんで、今の若い選手はそういうつけが回ってきちゃっているのかなって思います。小さいときに教わっていなければ、中学、高校でできないのも当然ですし」

 1986年生まれの柳川は現在35歳。社会ではまだまだ「若者」の部類にはいるのだろうが、それでも20代前半の独立リーガーたちとはジェネレーションギャップを感じるという。「僕ら世代でも、先輩方からみれば、『できていない』と感じるのでしょうけど、そういう僕らから見ても、今の選手たちは違いますね。そういう意味では、中学生指導をやっていて良かったなと思いますね。指導の際にはもちろんきつい口調になりがちなんですけど、きつく言うにしても、よく向き合ってあげるのも必要なのかなと思いますね」

 柳川はフィードでよく「トンボ」を手にしている。グラウンド整備をする例の道具だ。練習が一区切りつくと、率先してグラウンドをならす。

「結局、グラウンド整備するにしても、選手にやれって言っても、指導者本人が自分でやらないと、『何だ、あいつは。偉そうに言いやがって』というのが、今の選手なんです。早くやれよと言うより、自分が一緒にやれば、選手もやろうと思うじゃないですか。監督という肩書がついていますけれども、そこはプライドもくそもないですね。選手がいなければ指導もできないじゃないですか。だから、ある意味サポート役にしか過ぎないのかなと思います」

 だから元NPBという経歴も表に出さない。独立リーグからプロ入りという選手たちの夢見る「王道」を進んだ身ではあるが、それをひけらかしたところで指導にプラスに働くことはないと思っている。

「選手からNPBはどうだったんですかって聞かれることもありますけど、そういう時は、『ソフトバンクにいたんで、よく携帯を売っていたよ』とか、冗談で返すぐらいですね」

独立リーグの原点に立ち戻って

 滋賀ブラックスは今シーズン外国人選手を採用しなかった。コロナ禍にあって同様の方針を採った球団もあったが、滋賀の場合、コロナは関係なく、方針としてそうしたという。柳川は言う。

「独立リーグは本来そういうところだと思うんですよ。確かに外国人を獲るのもありだと思います。でもうちはもう育成というかたちでアマチュアの選手を引っ張ってきてそこからスタートするということです。元プロ(NPB)の選手も必要ないと考えました。やっぱり独立リーグの流れを変えたいというのはありますね。僕自身、独立リーグに戻ってきてこんなに元プロの選手がいるのかと驚きました。いつの間にか流れが違う方向に行ってしまったような気がするんです。外国人も元プロもいない中で地区優勝して、ポストシーズンでも一番になれば、それが正解という話になります。チームの盛り上げという点では多分各球団いろいろな方法論があっていいとは思いますが、僕自身は、本来の独立リーグのやり方で貫き通したいという気持ちです」

 2005年に日本初の独立野球リーグ、四国アイランドリーグがスタートした時、選手は国内のアマチュア選手から集めた。彼らにNPBへの再チャレンジの場を与えるという育成のためのプロリーグというスタンスで始まったのだ。しかし、やがて外国からの挑戦者にも門戸を開くようになると、プロ経験豊富なマイナーリーガーがNPBへの中継地として日本の独立リーグを目指す流れができてしまった。また、これに元NPBの選手も、再チャレンジやセカンドキャリアへの中継地として入ってくるようになった。彼らのおかげでプレーレベルは格段に上がったことは事実だが、滋賀球団、ならびに柳川は、それはそれとして認めつつ、今ここで、独立リーグの原点に立ち戻ろうというのだ。ドラフトに漏れた選手だけの陣容は、当然、外国人「助っ人」や元NPBなどのプロ経験豊富な選手も混じった他球団と比べ、戦力的に落ちる。しかし、柳川は開幕前にすでに手ごたえを感じ、その手ごたえを球団初のリーグチャンピオンシップ進出というかたちで現実のものとした。

開幕前に感じた手ごたえ

 その自信の根拠は、どの球団よりも練習したという自負だった。

「かなりやらせたというのはあります。開幕前のキャンプもそうでしたが、シーズン中も試合のない日は9時から5時までとか。もちろん時間じゃないんですけれども、内容も追求しながらやりました」

 とは言え、独立球団の場合、練習場の確保もままならないのが現実だ。実際、滋賀球団の以前の指導者の口からは、練習グラウンド確保の困難さを聞いたことがある。これに対しても、柳川は、笑い飛ばす。

「それについてはスタッフ全体で動きました。やり方じゃないですか。中学生とか教えているときは、グラウンドは自分たちで確保しなきゃいけないんで、僕は慣れていたんでしょうね。もしかしたら俺は元プロだから、そんなのは球団の仕事でしょという考えだったら、多分できないと思いますけれども。選手たちを練習させたいんだったら、自分らが動いて球場を取りに行けばいいだけの話なんで。練習環境はいくらでもありますからね。」

 5年前、チームがスタートした時は、河川敷の草野球場で練習することもあったという。現在はさすがにそんなところではやらないらしいが、雨が降れば、室内練習場は多くはないので、体育館を確保し、そこでできるメニューを考えたりと、柳川は中学生指導で培ったノウハウを独立リーグで駆使した。そうして迎えた開幕戦、柳川は十分な手ごたえをもってペナントレースに臨んだ。

「練習は選手に散々やらせましたから。他のどのチームよりしたと思っています。それでポストシーズンに行くのは難しいなんて言ったら、逆に選手から叱られますよ(笑)。球団には、地区2位までには最低いけますって報告しました。もちろん2位でいいとは思っていませんが、優勝か2位かというのは、それは約束ができないですけれどもっていう話はしました。正直投手陣には、不安な部分があったんですが、それは采配でうまく工夫しながらやっていけば、何とかなるんじゃないかなという気持ちでシーズンに臨みました」

 チームそのものも、昨年までとは別ものだった。球団は柳川にチームを預けるに際して、チームのメンバーをほぼ総入れ替えした。独立リーグは、夢を叶える場であるとともに夢をあきらめる場である。その本筋に従えば、決して長くいてはいけないところである。だらだらとモラトリアムを延長することを潔しとしないその球団の姿勢は、その後の新リーグ結成につながるものでもあった。

「昨シーズンからの選手は3人だけでした。途中でそのうちのひとりも辞めましたけど。キャンプスタート時点で、彼らにはとくに言い聞かせました。『(昨シーズンの)7勝なんてのは最低。恥だぞ』って。それをなあなあでやって、淡々と7勝でいいやって、そういう意識の選手も残念ながら去年まではいました。まずそこから変えるというスタートでしたね。そうやって彼らにはくぎを刺して、あとの選手は弱いチームを知りませんから。徹底的に練習すると伸びていきました。今こうやってシーズンが終わりなんですけど、キャンプの時と比べて確実に伸びています。だから、選手が練習を一生懸命やって、結果が出て伸びてという話ですよね」

 ペナントレースが始まると、ブラックスは順調に勝ち星を増やしていった。その原動力は強力な打線と、ともにリーグ最多の12勝を挙げた菅原誠也と吉村大佑の先発二枚看板だったが、なんといってもチーム一丸で最後まであきらめない粘りがブラックスの真骨頂だった。それはシーズン中対戦のなかった相手とのポストシーズンでも変わるところはなかった。

 プレーオフを前にして、ナインの力を信じる柳川の姿勢は変わることはなかった。

「はまってくれれば面白い試合になるんじゃないかなと思っていました。レベルの差は正直そんなに変わらないと思いましたね。言い方が悪いですけれども、こんなもんかって感じでした。あとは当日のお互いの調子だと思いました」

 東地区の覇者、埼玉武蔵ヒートベアーズとのプレーオフは、エース菅原を立てながら初戦を引き分けた後、第2戦目を吉村で落とした時は、万事休すと思われた。しかし、ブラックスは大量点差での勝利しか道はない第3戦目で14対1という大勝を飾り、見事チャンピオンシップに駒を進める。結局、ここでは連敗し、BCリーグ最初にして最後の優勝を飾ることはできなかったが、オセアン滋賀ブラックスは、来シーズンからは、新リーグ、日本海オセアンリーグに舞台を移し、滋賀GOブラックスとして再出発する。

(写真は筆者撮影)

ベースボールジャーナリスト

これまで、190か国を訪ね歩き、23か国で野球を取材した経験をもつ。各国リーグともパイプをもち、これまで、多数の媒体に執筆のほか、NPB侍ジャパンのウェブサイト記事も担当した。プロからメジャーリーグ、独立リーグ、社会人野球まで広くカバー。数多くの雑誌に寄稿の他、NTT東日本の20周年記念誌作成に際しては野球について担当するなどしている。2011、2012アジアシリーズ、2018アジア大会、2019侍ジャパンシリーズ、2020、24カリビアンシリーズなど国際大会取材経験も豊富。2024年春の侍ジャパンシリーズではヨーロッパ代表のリエゾンスタッフとして帯同した。

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