父と先輩に朗報を届けようと、国内外で活躍するホースマンの物語
馬主だった父の下に生まれ
丁度1年前のこの時期、彼の姿をイギリス、ニューマーケットで見た。
男の名は安井賀彦。1972年4月に生まれ、京都競馬場から目と鼻の先にある酒屋の子として育った。
「父(栄蔵)は競馬場の中にテナントを持つ馬主でもあったので、自分も中学に入る頃には競馬の世界に入りたいと考えるようになりました。いつかパドックで父が持っている馬を曳き、一緒に口取り写真を撮るというのを目標にしました」
91年に高校を出るとすぐに育成場で働いた。
「北海道の浦河にあるひるかわ育成牧場に就職し、そこで初めて本格的に馬に乗りました。最初は落ちないようにするのに必死でした。冬は厳しかったけど、馬が可愛いので辞めたいとは一度も思いませんでした」
牧場の社長の紹介で、94年7月からはアイルランドへ渡った。
「幾つかの厩舎で修行させてもらいました。ラチの無い所で、しかも羊が沢山いるようなコースでの調教は衝撃的でした。途中、イギリスへも行き、ラムタラがダービーを勝つシーンに立ち会いました」
96年4月に帰国すると、装蹄教育センターで講義を受け後、牧場での研修を経て、99年1月、競馬学校に入学。同年7月から栗東・大根田裕也厩舎で調教助手となった。
「その後、清水出美厩舎を経て、現在の中内田充正厩舎へ移りました」
GⅠ初制覇と海外遠征
2020年、ひょんな形で海外遠征を任された。
「ダノンプレミアムがオーストラリアへ遠征(GⅠ・クイーンエリザベスSに挑戦)する事になったのですが、前任の担当者である吉波浩一さんが体調を崩したため、私が行く事になりました」
これが自身初の海外遠征であり、GⅠ挑戦でもあった。
「コロナ初年度といえる時で、現地入り後の1週間、キャンピングカーでの隔離生活を強いられました」
そんな苦労をしての挑戦だったが、結果は英国から遠征して来たW・ハガス厩舎のアデイブに敗れ3着。競馬の厳しさを改めて思い知らされた。
帰国して間もなく担当になったのが、当時2歳のグレナディアガーズだった。
「暮れには朝日杯フューチュリティSを勝ち、私自身、初めてのGⅠ制覇を成し遂げたのですが、コロナ禍で無観客だったため、実感が湧きませんでした」
ところが翌月曜日、改めてGⅠ勝ちを実感出来る出来事が待っていた。
「トレセンに行くと、吉波さんが遠くから走って来て『おめでとう!!』と言いながら泣いて抱きついてくれました。この時、初めて『あぁ、GⅠを勝てたんだ……』って感じる事が出来ました」
そんなグレナディアガーズとイギリスに遠征したのが今から丁度、1年前だった。ロイヤルアスコット開催のプラチナジュビリーS(GⅠ)に挑戦するため、プリンスオブウェールズS(GⅠ)に出走した藤原英昭厩舎のシャフリヤールと共に海を越えた。
「ニューマーケットのウォーレンヒルを見た時は『こんな凄い傾斜、登れるのか?』と思いました。ただ、実際にそこで乗ってみると、意外とケロリとしていて、1週間後には2本、登れるようになっていました」
自分達がやって来た事が、本場イギリスでも決して劣っていないと思える場面は他にも幾つもあったと言う。結果は24頭立ての19着ではあったが「道中、一瞬ですが夢見るシーンも作ってくれたので大した馬だと思いました」と述懐した。
新たなる目標
安井の海外遠征はまだ続いた。
「吉波さんが定年で引退され、代わりに私がやる事になったのがプログノーシスでした。以前は一度使うと反動のあるタイプだったけど、吉波さんが献身的に面倒を見てくれていたお陰もあってようやく本格化し、そのタイミングでバトンを受け取る形になりました」
3月には金鯱賞(GⅡ)を勝利すると「更に良い状態」(安井)になって、香港へ遠征。クイーンエリザベス二世盃(GⅠ)に挑んだ。
結果、W・ハガスが送り込んだドバイオナー(3着)には先着し、3年前のオーストラリアでの雪辱を果たしたが、地元の雄・ロマンチックウォリアーには2馬身及ばず。2着に惜敗した。
「吉波さんに朗報を届けられなかったのは残念だけど、馬自身は慣れない環境でも良く頑張ってくれました」
勝ったロマンチックウォリアーは天皇賞(秋)(GⅠ)に挑戦するプランも上がっている。ホーム&アウェイが入れ替わり「今度こそ吉波さんに朗報を届ける」という新たな目標を持った安井だが、冒頭に記した願いもまだ諦めたわけではない。
「父は既に馬主を引退してしまいました。でも、一緒に口取り写真を撮れなくなったというわけではありません。私が頑張ってGⅠを勝つので、その時には父にも立ち会ってもらいたいです」
それがプログノーシスなのかグレナディアガーズなのか、はたまた他の馬になるのかは分からない。しかし、どの馬だとしても、そんな願いが叶うよう、応援したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)