リオ五輪不出場は「言葉に言い表せられぬ喪失感」競歩・鈴木雄介が挑む9年越しの夢
「なぜあの場に自分はいないのか」。2016年のリオデジャネイロ五輪を前に「金メダル候補」とまで期待を集めながら、出場がかなわなかった選手がいる。陸上男子競歩の鈴木雄介(32=富士通所属)だ。
15年3月に20キロ競歩で世界新記録を樹立し、脚光を浴びた。しかしその2カ月後に股関節を負傷。同年8月の世界選手権は途中棄権となり、リオ五輪出場も逃した。「引退も考えた」というが、懸命なリハビリをへて19年9月、世界選手権50キロ競歩で復活の「金」。東京五輪代表に内定した。「世界一美しい歩形」と称される鈴木は、延期の1年をどう歩むのか。8月6日は東京五輪で50キロ競歩が行われる1年前。36位だったロンドン五輪以来となる9年越しの大舞台に懸ける思いを聞いた。
■ベストコンディションで迎えた“2020” 延期は堪えた
19年9月、酷暑のカタール・ドーハで行われた世界選手権。4年ぶりの世界大会で自身初の頂点に立った鈴木は、その後も万全の調整を続け、最高の状態を保って東京五輪イヤーを迎えていた。
だからこそ、五輪の1年延期は堪えた。延期が決まった時の心境を、鈴木はこのように表現した。
「すでに調整が進んでいる状態でしたから、今年開催してほしいと思っていました。でも、難しいことも理解していました。中止ではなく延期で合意されたことに感謝しています」
そこからは気持ちを切り替える作業が始まった。そして、「いずれにせよベストな形で大会に臨めるよう、準備を進めていくのみ」と腹をくくった。
■「世界一美しい歩形」中学時代に芽生えた競歩の“才能”
出身の石川県は「競歩王国」と呼ばれる。1964年東京五輪と68年メキシコ五輪代表の斎藤和夫から始まり、88年ソウル五輪から16年リオ五輪までの8大会は連続で代表を輩出している。中でも鈴木が生まれた能美市は輪島市と並んで競歩が盛んで、熱心な指導者がいる。同市では「全日本競歩能美大会」が毎年行われ、15年に鈴木が世界記録をマークしたのもこの大会だ。ただ、鈴木が競歩を始めたのは中学生になってから。小学生の頃は地元の陸上クラブで長距離走をしていた。
しかし、練習開始からわずか2カ月で県大会3位になったように、鈴木には天性の競歩センスがあった。中学2年生の時、長距離走と競歩の2種目で地区大会に出ると、メインで取り組んできた長距離走ではなく、競歩で全国大会に進んだ。瞬く間に記録が伸び、次々と中学新記録を出すようになった。
地元の小松高校に進んでからは、日本陸連が招聘したイタリア人コーチの指導を受けるなどして実力が大幅にアップ。順天堂大学1年の時に出た世界ジュニア選手権1万メートル競歩で銅メダルを獲得した。
今では競歩界で「世界一美しい歩形」 を持つ選手とされており、鈴木自身、「滑らかな脚の運びには自信をもっていますのでぜひご注目ください」と胸を張っている。
■世界新樹立の鈴木がリオ五輪前に描いた青写真「目標はリオ、東京ともに世界新で金」
12年ロンドン五輪では力及ばず36位に終わったが、大舞台で課題と収穫を手にしたことにより、さらに意欲をかき立てた。
「ロンドン五輪の後は、世界大会でメダルを獲得することだけに集中しました。世界で戦うにはまだ自分の記録が劣っていたので、『4年間でいかに記録を向上させるか』ということを考え、それを行動に移し、トライアンドエラーを繰り返しながらトレーニングをしました」
成果として現れたのが、15年3月に20キロ競歩で出した1時間16分36秒の世界新記録だ。陸上の日本勢では2001年の女子マラソン・高橋尚子以来で、男子では1965年のマラソン・重松森雄以来、50年ぶりの世界新樹立。5年後に東京五輪を控えている中での快挙達成に、陸上界を超えて日本のスポーツ界全体が沸いた。
この成績によって15年8月に北京で行われる世界選手権の日本代表に選出された鈴木は、競歩人生の青写真をこのように語っていた。
「今年からの3年間は、北京世界選手権・リオ五輪・ロンドン世界選手権と続く。その3大会を、僕の中での20キロ競歩の集大成としたい。その3大会で金メダルを獲って、その後、20キロは若手に任せる。ベテランは50キロをがんばって、20キロも50キロも活性化させたい」
これだけではない。鈴木は同じく15年に「リオで20キロ、東京で50キロの金メダルを、両方とも世界記録を出して獲る。そして、競歩界の史上最高選手となるのが最大の目標です」とも語っていた。それが決して夢物語には聞こえなかった。
■見ることもできなかったリオ五輪。「自分がなぜあの場所にいないのか」
しかし、状況は急転した。鈴木は世界記録樹立から2カ月後の5月頃から股関節に痛みを感じるようになった。痛みを押して出場した世界選手権を途中棄権し、リオ五輪の代表から漏れた。
「その頃の僕は、26歳で迎えるリオ五輪が年齢的にも最高のタイミングなのかもしれないと考えながら、競技やトレーニングに全てを捧げていました。そのタイミングでリオ五輪に出られなかった喪失感とショックは、言葉に言い表せません」
リオ五輪では同じ1988年生まれで1学年下の荒井広宙が50キロで銅メダルを獲得し、日本の競歩界に初めてメダルをもたらした。だが、これも素直に喜べなかった。
「正直、レースを観戦することはできませんでした。荒井選手の活躍はとても誇らしく、うれしい結果であったのは間違いありません。けれども、うれしい気持ちと、自分がなぜあの場に居ないのか? という悲しみが入り混じって、素直に喜べない苦しみも同時にあり、日が経つにつれて、複雑な気持ちになりました」
追い打ちを掛けるように股関節の痛みが長引き、一時は引退が頭をよぎった。しかし、懸命なリハビリの甲斐があって、18年5月に実戦復帰を果たした。北京での世界選手権を途中棄権してから2年9カ月ぶりのレース。当時の気持ちを鈴木は今、このように振り返る。
「心の支えになるものが何もなかったくらい、長く苦しい時期がありました。でも、そんな中でも周囲の方々が励まし続けてくれ、私を再び競歩の世界に引きとどめてくれました。一番大きかったのは、富士通が私を選手として残し続けてくれたことです。周囲の方々の尽力のお陰で、私は復活することができました。感謝しかありません」
■七転び八起きの競技人生。鈴木は謙虚に9年越しの大舞台を見つめる
15年に出した20キロの世界記録は今なお破られていない。3年近くレースから離れたにもかかわらず、19年には世界選手権を制している 。まさに七転び八起き。しかし、鈴木は謙虚に言う。
「世界に挑み続けてきた先人の方々のお陰で、今の私がいます。一緒に世界の舞台に挑戦し、活躍する仲間も数多くいます。日本人が『競歩』という競技で世界のトップを目指せる時代に、いち選手であることに喜びと誇りを感じています」
鈴木は今、この先の1年間を最高に意味のある時間にしようと決意している。
「東京五輪に向けての準備が一年増えました。昨年、ドーハ(世界陸上)で金メダルを獲得したとき以上の力を身につけられるように、本番まで日々努力していきたいです」
8年ぶりの大舞台として見つめてきた東京五輪は、9年越しということになった。鈴木は今、1年後にスタート地点に立っている自分を思い浮かべ、「レースを楽しみ、レース後も楽しもうと声を掛けたいですね」と言う。
「競歩界の先人の方々が尽力してきたのと同様に、私も東京五輪を競技の発展に繋げていきたいと思います。競歩がより身近なスポーツと感じてもらえるような未来にしたいです」
1年後の東京五輪で鈴木が見せる姿は、15年に思い描いた青写真以上の輝きとなるだろう。
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【連載 365日後の覇者たち】1年後に延期された「東京2020オリンピック」。新型コロナウイルスによって数々の大会がなくなり、練習環境にも苦労するアスリートたちだが、その目は毅然と前を見つめている。この連載は、21年夏に行われる東京五輪の競技日程に合わせて、毎日1人の選手にフォーカスし、365日後の覇者を目指す戦士たちへエールを送る企画。7月21日から8月8日まで19人を取り上げる。
【この記事は、Yahoo!ニュース個人の企画支援記事です。オーサーが発案した企画について、編集部が一定の基準に基づく審査の上、取材費などを一部負担しているものです。この活動は個人の発信者をサポート・応援する目的で行っています。】