【光る君へ】藤原道長の兄の道綱は、なぜ弟よりも昇進が遅かったのか
大河ドラマ「光る君へ」では、おっとりした感じの藤原道綱も注目されている。とはいえ、ほかの兄弟の道隆、道兼、道長と比較して、やや存在感が薄い。しかも、昇進は弟より遅れた。それはなぜなのか、考えてみることにしよう。
藤原道綱が兼家の次男として誕生したのは天暦9年(955)のことで、母は藤原倫寧の娘である。母の実名は伝わっていないので、藤原道綱母と呼ばれている。『蜻蛉日記』の作者でもあった。
道綱には兄弟姉妹がいたが、うち3人を簡単に紹介しておこう。長男の道隆は天暦7年(953)の誕生、三男の道兼は応和元年(961)の誕生、五男の道長は康保3年(966)の誕生であり、彼らの母は藤原時姫(藤原中正の娘)である。
なお、時姫は冷泉天皇に入内した超子、円融天皇に入内した詮子をそれぞれ産んだことでも知られている。
道綱が従五位下に叙されたのは、天禄元年(970)のことである(16歳)。一方で、弟の道長が従五位下に叙されたのは、天元3年(980)のことである(15歳)。
ちなみに、道兼が従五位下に叙されたのは天延3年(975)のことなので(15歳)、年齢的に言えば兄弟ともども、さほど大きな差はなかった。
ところが、道綱が従三位に叙されたのは、永延元年(987)のことである(32歳)。一方で、弟の道長が従三位に叙されたのも、同じ永延元年(987)のことである(22歳)。従三位に昇叙したのは、圧倒的に道長の方が早い。
結局、道綱は正二位・大納言まで昇進したが、そこで終わりである。一方の道長は、従一位・太政大臣まで昇進し、摂政にも任じられた。
道長と同じく、時姫が産んだ道隆と道兼も最終的には、大臣、摂政、関白に任じられるまで昇進した。ドラマの中で、道綱の母は夫の兼家に息子の昇進の件を頼んでいたが、それはなかなかうまくいかなかった。その差は、いったいどこにあったのだろうか。
その理由は、母によるものにあったと考えられる。道綱の母が産んだのは、道綱だけだった。一方の時姫は道隆、道兼、道長のほか、天皇に入内した2人の娘を産んだ。兼家からすれば、時姫が産んだ子を重視するのが当然だったといえよう。
もっとも、藤原実資の日記『小右記』、藤原行成の日記『権記』によると、道綱の仕事ぶりは芳しくなかった。そうしたことも、災いしたのかもしれない。