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大量虐殺をした織田信長は、本当に残虐な武将だったのだろうか?その真意とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:アフロ)

 仮に戦争になってしまった場合でも、国際法で守るべきルールがあり、残虐な行為は禁止されている。織田信長は、敵対する勢力の徹底した殲滅すら平気で行っていた。この点について考えてみよう。

 織田信長といえば、非常に苛烈な性格の武将として知られている。19世紀に成立した『甲子夜話』には、信長の性格を詠んだ「鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス」という句が収録されている。

 信長は非常に短気で、気に入らないことがあれば、残酷にもすぐに殺してしまうということになろう。たしかに日本の歴史上において、信長ほど大量虐殺を行った武将は、なかなかいないはずである。

 元亀2年(1571)、信長は比叡山延暦寺を焼き討ちにした。延暦寺は金銭を贈り、信長に攻撃を中止してほしいと懇願したが、それは拒否された。その結果、約3千から4千といわれる僧侶や住民たちが殺害されたといわれている(死者の数は諸説あり)。

 天正2年(1574)、信長が長島一向一揆との戦争に臨んだ際、一揆勢が籠る屋長島城と中江城を火攻めにしたので、城内の約2万という人々が焼死したという。それ以前、大鳥居城、篠橋城に籠城した一揆勢は降伏を申し出たが、信長は決して許さないという徹底ぶりだった。

 翌年、信長は越前一向一揆を討伐すべく、約3万もの大軍を率いて越前国内に攻め込んだ。信長軍は一揆勢を次々と討ち取ると、その数は約1万2千に及んだという。しかも、山野に逃げ込んだ一揆勢を徹底して探し出し、男女に関係なく斬り捨てたのである。

 天正7年(1579)に荒木村重の有岡城を落としたあとは、尼崎で有岡城の女房衆122名を惨殺し、京都で村重の一族ら36人を斬首した。それは、当時の人々にも残酷な所業としてうつったようである。

 当時、信長に敵対する勢力は、少なからず存在した。ときに信長は敵対勢力を懐柔しようと試みたが、拒否されることもあった。荒木村重のケースは、好例であろう。そうなると徹底した殲滅にスイッチが入った。残酷というよりも、当然の措置だった。

 信長が大量虐殺を行ったのは一種の見せしめで、敵対勢力を根絶やしにすることにより、ほかの敵対勢力の戦意喪失を狙ったものだろう。とはいえ、それでも怯まず、信長に戦いを挑む武将らがいたのだから、彼らには何らかの勝算があったのか?

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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