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『ポップヨシムラ』の壮絶人生を伝承 メモリアルコーナー、小鹿野バイクの森に誕生

柳原三佳ノンフィクション作家・ジャーナリスト
(左から)長女、妻、長男、長女の夫に囲まれる、没後26年の吉村氏(筆者撮影)

 11月27日、埼玉県小鹿野町の「小鹿野バイクの森」に、『伝承・ポップ吉村メモリアルコーナー』がオープン。当日はさわやかな秋晴れのもと、除幕のテープカットやトークショーなどの開会セレモニーが開催され、多くのヨシムラファンやツーリングライダーたちが駆け付けました。

会場ではヨシムラのレーサーの排気音も披露された(筆者撮影)
会場ではヨシムラのレーサーの排気音も披露された(筆者撮影)

“伝説のチューナー”と呼ばれた「ポップ吉村」こと吉村秀雄氏(1922~1995)。モータースポーツを愛好する人なら誰もが知るこの人物は、HONDAの創業者である本田宗一郎氏とならんで、「AMA(アメリカ・モーターサイクリスト協会)」の殿堂入りを果たした、日本を代表するエンジンのチューニング技術者です。

 1978年、鈴鹿サーキットで開催された第1回鈴鹿8時間耐久レースでは、吉村氏が独自にチューンしたSUZUKI・GS1000が、HONDAワークスのRCB1000を抑え1位に輝きました。

『伝承・ポップ吉村メモリアルコーナー』のパネル展示より(筆者撮影)
『伝承・ポップ吉村メモリアルコーナー』のパネル展示より(筆者撮影)

 プライベートチームでありながら大メーカーのレーシングチームを打ち破る……、ここから始まる数々の快挙は、いまも熱く語り継がれています。

 吉村氏の技術はその後もレース界をけん引し、各メーカーが市場に生み出すバイクや車の製造にも影響を与えてきたのです。

 会場には、1983年の鈴鹿8時間耐久レースでポールポジションを獲得したGSX1000(モリワキフレーム、ヨシムラエンジン)、2021年にチャンピオンを獲得した、SERT Motul 耐久マシン GSX-R1000Rも展示され、多くの見学者の目を引きつけていました。

 筆者も1980年代のバイクブームの頃、少しでも車体を軽くするため、SUZUKIのGSX-R750に「ヨシムラ」の集合管を付けて走っていた懐かしい思い出があります。

 思い返せば、バイク用の「集合管」というものを世界で初めて開発したのもポップ吉村です。レースには出場せずとも、ヨシムラの集合管のあの独特の排気音に魅せられてきたライダーは多いのではないでしょうか。

吉村氏の親族、森真太郎小鹿野町長らが出席してテープカットが行われた(筆者撮影)
吉村氏の親族、森真太郎小鹿野町長らが出席してテープカットが行われた(筆者撮影)

■「ラスト侍」と呼ばれた男・ポップ吉村

 さて、「小鹿野バイクの森」の会場に入ると、まず飛び込んでくるのは、ポップ吉村の大きな肖像写真と『お前らそんな不真面目なことでどうする! もっと真面目にやれ!』という檄文です。

 そのパネルの両サイドには、【黎明 1937~九州福岡】【激闘 1972~海外へ】【飛躍 1980~日本】3つのコーナーに分けて数々の写真が展示され、大正、昭和、平成という時代を駆け抜けた吉村秀雄氏の73年におよぶ壮絶な歴史が、来場者の心に迫る構成となっています。

 大正11年に福岡県で生まれ、14歳のとき予科練に入り、最年少の航空機関士として第二次大戦に従軍したという吉村氏。

パネル展示より(筆者撮影)
パネル展示より(筆者撮影)

 父の苦労を間近で見てきた長女の森脇南海子さん(モリワキエンジニアリング専務)はこう語ります。

「父は戦争を経験し、特攻隊の先導を命ぜられた数少ない日本人です。投獄、倒産、闘病と、数々の苦難に見舞われながらも真正面から向き合い、逆境を乗り越え、夢を追い続け、モータースポーツ界では“ラスト侍”とまで言われてきました。このメモリアルコーナーを通して、そんな父の人生、生き様を見ていただき、『こんな日本人がいたんだ』ということを多くの若者たちに知っていただければと思います」

 南海子さんのお話は、父の吉村氏を陰で支え続けた母・直江さんのはかりしれぬ苦労と、ヨシムラを生み、育て上げた二人の絆へと続きました。

 ポップ吉村と50年以上連れ添った妻・直江さんは、現在96歳。大変お元気で、会場ではテープカットを行われていました。

長女の南海子さんとともにテープカットを行うポップ吉村氏の妻・直江さん。とても96歳には見えない(筆者撮影)
長女の南海子さんとともにテープカットを行うポップ吉村氏の妻・直江さん。とても96歳には見えない(筆者撮影)

 この日、私は、直江さんともいろいろお話しすることができました。また、直江さんにとっては娘婿に当たる森脇護氏(モリワキエンジニアリング社長)からも、

「お母さん(直江さん)あってのオヤジ(ポップ吉村)だった」

 という、熱いお話を伺うことができました。

 その内容については、ここでは書ききれませんので、後日、改めて紹介させていただきたいと思います。

パネル展示より(筆者撮影)
パネル展示より(筆者撮影)

■「脱エンジン」の流れに負けないバイク文化の継承を

 今、世界中の自動車メーカーが、今後発売する車をエンジンのないEV車(電気自動車)や、FCEV車(水素燃料電池車)に切り替えていくと宣言しています。

 バイク乗りの多くが、エンジンというものが消えていくことに、言いようのない寂しさを感じていることでしょう。

トークショーには、右から森脇南海子氏(75)、南海子氏の夫・森脇護氏(73)、吉村不二雄氏(73)が登壇した(筆者撮影)
トークショーには、右から森脇南海子氏(75)、南海子氏の夫・森脇護氏(73)、吉村不二雄氏(73)が登壇した(筆者撮影)

 そんな中、テープカットの後に行われたトークショーでは、吉村氏の長男でヨシムラジャパン社長の吉村不二雄氏(73)が、自らこの問題に触れる場面もありました。

「ちょうど我々の育った1960年代、高度経済成長期の日本を支えたのは、まさにオートバイであり、4輪車であり、自動車産業そのものでした。日本がエンジンの開発をし、バイクや車を作る、そして周りでそれを支える活動をしたからこそ、今の日本があるんだと思います。今後、バイクからエンジンの音がなくなるんじゃないか? そんな不安を抱いている人もおられるでしょう。でも、絶対そんなことはありません。確かに、これから先どうなるのかわからず、暗い部分もあります。時代の流れに巻かれて、萎んでいく産業になりかねません。でも、我々が守っていかなければならない、発信し続けなければならないと思うのです」

ヨシムラで活躍したライダーたちと(筆者撮影)
ヨシムラで活躍したライダーたちと(筆者撮影)

 不二雄氏は、レースなどのモータースポーツも、他のスポーツと同じく、社会的地位の向上を目指すべきだと語り、最後にこう呼びかけました。

「人間の価値観はいろいろです。目で見る、音で聴く、味を感じる……、五感を刺激する何かがないと価値がない。これから我々も努力を続けていきますのでよろしくお願いします」

 長い歴史の中で、エンジン、そしてモータースポーツという一時代を築いてきたヨシムラだからこその発言に、会場からは大きな拍手が沸き起こりました。

 秩父市の隣に位置する小鹿野は、全国でも珍しく「バイクによる町おこし」に力を入れていることで有名な町です。

 同町の道の駅の駐車場には、屋根付きの立派なバイク用駐車場が設置されており、おいしい豚丼が燃料タンクに入った「バイク弁当」も人気です。

 ライダーにとっては至れり尽くせりの楽しいおもてなしが満載。ぜひ、バイクに乗って「小鹿野バイクの森」(埼玉県秩父郡小鹿野町般若 360-1)に足を運んでみてくださいね。

燃料タンクの形をした弁当箱が人気の「バイク弁当」。「小鹿野バイクの森」で販売されている(筆者撮影)
燃料タンクの形をした弁当箱が人気の「バイク弁当」。「小鹿野バイクの森」で販売されている(筆者撮影)

もともと町営の温泉施設だったが、2021年3月「小鹿野バイクの森」として再開館。現在はアライヘルメットの商品展示ブースが設けられている(筆者撮影)
もともと町営の温泉施設だったが、2021年3月「小鹿野バイクの森」として再開館。現在はアライヘルメットの商品展示ブースが設けられている(筆者撮影)

ノンフィクション作家・ジャーナリスト

交通事故、冤罪、死因究明制度等をテーマに執筆。著書に「真冬の虹 コロナ禍の交通事故被害者たち」「開成をつくった男、佐野鼎」「コレラを防いだ男 関寛斉」「私は虐待していない 検証 揺さぶられっ子症候群」「コレラを防いだ男 関寛斎」「自動車保険の落とし穴」「柴犬マイちゃんへの手紙」「泥だらけのカルテ」「焼かれる前に語れ」「家族のもとへ、あなたを帰す」「交通事故被害者は二度泣かされる」「遺品 あなたを失った代わりに」「死因究明」「裁判官を信じるな」など多数。「巻子の言霊~愛と命を紡いだある夫婦の物語」はNHKで、「示談交渉人裏ファイル」はTBSでドラマ化。書道師範。趣味が高じて自宅に古民家を移築。

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