【光る君へ】夫の藤原宣孝の死後、紫式部に恋心を抱いた男性とは
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、「まひろ」(紫式部)が女房達に和歌を教えながら、物語の執筆に勤しむ模様が描かれていた。夫の藤原宣孝の死後、紫式部に恋心を抱いた男性がいたので、取り上げることにしよう。
長保3年(1001)4月25日、紫式部の夫の藤原宣孝は突如として亡くなった。当時、疫病が流行していたので、それが死因であるともいわれている。きっと、紫式部は嘆き悲しんだに違いなく、その悲しみは察するに余りあるものがある。
宣孝には紫式部以外にも妻がおり、その間に子をもうけていた。その1人が生前に宣孝が書いたものを読んで、父を敬慕するあまりに和歌を詠んだ。その和歌は、紫式部のもとにも届けられた。紫式部は、その和歌に返歌を贈っている。
和歌を詠んだ宣孝の遺児の名は明らかではないが、宣孝と藤原朝成の娘と間にできた子で、のちに藤原道雅(伊周の子)の妻になった女性であると考えられている。紫式部と宣孝の遺児は、年齢が比較的近かったと考えられ、それゆえ交流を深めたのかもしれない。
宣孝の死の直後、紫式部には求婚者があらわれたという。求婚者の名は明らかではないが、贈られた和歌には「西の海」、「西のあだ浪」とあるので、西国方面で受領を務めていた人物ではないかと推測されている。
しかし、紫式部は宣孝が亡くなった直後ということもあり、ずっと喪に服していた。この男性の求婚は、最後まで拒み続けたようである。紫式部からすれば、すぐにほかの男性の妻になる気がなかったのだろう。
紫式部に求婚したのは、その男性だけではなかった。宣孝の長男の隆光は、継母の紫式部に恋をしていたという。むろん、隆光の恋心は紫式部に受け入れられることはなかったが、この話は『源氏物語』の空蝉のモデルになったと推測されている。
紫式部は宣孝との間に娘を授かっていたこともあり、いつまでも嘆いてばかりはいられなかった。宣孝の死からしばらくして、紫式部は藤原道長から娘の彰子の女房として仕えるよう求められた。
こうして紫式部は「藤式部」という召し名で、出仕したのである。「藤」というのは、藤原氏のことを意味する。その後、紫式部は『源氏物語』の執筆に着手したのである。
主要参考文献
今井源衛『紫式部』(吉川弘文館、1985年)
沢田正子『紫式部』(清水書院、2002年)
山本淳子『『源氏物語の時代』一条天皇と后たちのものがたり』(朝日選書、2007年)