穴山梅雪は、なぜ土壇場で武田勝頼を裏切ったのだろうか?
政治的に混迷を深める中、仲間に裏切られる政治家は決して珍しくない。戦国時代において、裏切りは頻繁に行われた。武田勝頼は穴山梅雪ら家臣の裏切りによって、滅亡に追い込まれた1人である。その事情を考えてみよう。
穴山梅雪(信君:のぶただ)が信友の子として誕生したのは、天文10年(1541)のことである。母は武田信玄の姉で、妻は信玄の娘という関係から、梅雪は武田親類衆の重鎮だった。
それだけではない。梅雪は甲斐国の富士川沿いに河内領を支配しており、それは甲斐国内の3分の1に相当した。梅雪は、武田氏家臣の中で最大の所領規模を誇っており、信玄・勝頼から厚い信頼を得ていたのである。
梅雪が信玄から主に任されたのは、諸大名との外交だった。駿河今川氏、小田原北条氏との交渉(甲駿相三国同盟)に際して、梅雪は今川氏との交渉を任された。梅雪の領国は駿河と接していたことも、関係していたであろう。
梅雪は駿河江尻城代を任され、庵原郡を所領として与えられた。しかし、天正元年(1573)に信玄が亡くなると、情勢が一変した。2年後の長篠合戦において、武田氏は織田・徳川連合軍に惨敗を喫したのである。
以後、梅雪は、勝頼やその側近衆としばしば意見が対立したという。しかも、長篠合戦で梅雪が懇意にしていた重臣の多くが戦死したので、武田家中において孤立感を深めていったのである。
天正6・7年(1578・79)にかけて、梅雪は江尻城に天守を築くなど、城の普請を行った。これは隣国の徳川家康を警戒したものと考えられるが、一方で武田氏からの離反を考えていたという説もある。
しかし、梅雪が本当に武田氏を裏切ると認識されていたならば、勝頼は許さなかっただろうから、やはり家康対策と見るべきだろう。天正10年(1582)、織田信長は甲斐征伐を敢行した。
『多聞院日記』には、梅雪が信玄の婿であること、5000人を率いる大将だったこと、駿河の代官だったことを挙げている。つまり、信長の甲斐征伐の開始時点において、梅雪は武田氏の重鎮と認識されていた。
しかし、梅雪はかねて家康と和睦交渉をしており、締結すると駿河口からの侵攻を助けた。その後、木曽義昌らが信長に内通し、武田氏は一気に瓦解した。おそらく梅雪は武田家中の動揺を見抜き、勝頼を裏切ったのだろう。戦後、梅雪は旧領を安堵されたのである。