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織田信長に挙兵した足利義昭が呆気なく敗れたワケ

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
織田信長。(提供:イメージマート)

 政治の世界では、政治家同士が路線をめぐって対立し、袂を分かつことが珍しくない。それは戦国時代も同じことで、織田信長と足利義昭は政治路線をめぐって対立し、雌雄を決することになった。その理由や経緯について確認することにしよう。

 信長は最初から室町幕府を打倒する目的があったので、義昭は傀儡将軍だったという説があった。しかし、信長は朝廷や幕府を尊重していたので、その説は当たらない。

 義昭は朝廷への奉仕を怠り、配下の者に恩賞を与えないなど、愚行が目立った。あまりのことに信長は、義昭を「将軍としての器量なし」とみなし、決裂したというのが真相だろう。

 天正元年(1573)7月3日、義昭は重臣の真木島昭光の居城である槙島城(京都府宇治市)に籠って、信長に挙兵した。同年7月6日、信長は軍勢を槙島城へ遣わす一方、自身は同年7月9日には上洛し、妙覚寺(京都市上京区)に入ったのである。信長は、合戦準備を万端に整えていた。

 同年7月12日、信長の軍勢は、義昭の重臣の三淵藤英・秋豪父子が籠る二条御所を攻撃した。藤英らは抵抗したが降伏し、御所は破却された。のちに藤英・秋豪父子の身元は明智光秀に預けられ、天正2年(1574)7月6日に坂本城(滋賀県大津市)で自害を命じられたのである。

 同年7月16日、義昭が籠る槙島城は織田方の大軍に包囲された。翌7月17日、信長は槙島城を攻撃すると、翌日に義昭は降参を申し出た。結論を端的に言えば、義昭は無勢であり、圧倒的な軍事力を誇る信長に勝てるはずがなかったのだ。義昭が信長に敗北したので、室町幕府は滅亡したのである。

 その後、義昭は大坂本願寺の顕如の仲介により、三好義継の居城・若江城(大阪府東大阪市)に移った。ところで、信長は「天命恐ろしき」という理由により、決して義昭を殺さなかった(『信長公記』)。嘉吉の乱で足利義教を殺害した赤松満祐は、非業の死を遂げた。信長は、そうならないよう義昭を殺さなかったのだ。

 義昭は敗北したものの、以後も室町幕府を再興しようと画策した。義昭は京都を離れたが、上杉謙信、毛利輝元、大坂本願寺などと連携し、「打倒信長」、「室町幕府再興」を悲願としたのである。

 ところが、天正元年(1573)8月、義昭と協力関係にあった越前の朝倉義景、近江の浅井長政が信長に敗れて滅亡した。義昭の前途は、極めて多難だったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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