鎌倉幕府御家人の和田義盛は、なぜ消されたのか? 和田合戦の全貌を探る
現在、いかに有力な人物であっても、表舞台から姿を消さざるを得ないことが起こりうる。草創期の鎌倉幕府においては、なおさらのことだった。ここでは、和田義盛の例を取り上げることにしよう。
和田義盛は源頼朝に従って「打倒平家」の軍勢に加わり、見事に念願を果たした。草創期の鎌倉幕府においては、有力御家人として合議政治に参画した。しかし、建保元年(1213)に泉親衡の乱が勃発すると、義盛の一族が加担していたことが発覚した。
乱後、義盛の甥胤長が処罰されたが、義盛は大いに不満だった。そもそも義盛は北条氏と対立していたこともあり、横山党や三浦氏らを引き込んで、北条氏に兵を挙げたのである。
建暦3年(1213)5月2日、義盛は挙げ、幕府の南門付近にある北条義時の邸宅を襲撃した。警備をしていた兵が応戦したが、その多くは討たれた。義盛の兵は幕府を攻囲し、御所に放火した。幕府方には、義盛を裏切った三浦義村も駆けつけ、義盛の軍勢と戦ったのである。
朝比奈義秀(義盛の次男)は御所の惣門を打ち破って南庭に乱入すると、御所は火を掛けられて焼失した。しかし、義盛軍は徐々に疲労の色が濃くなり、逆に幕府軍は態勢を整えた。やがて、幕府軍が義盛軍に反撃してきたので、義盛軍は防戦一方になりつつも、由比ガ浜へと退いたのである。
翌日の夕刻、幕府勢の勝利に終わり、義盛以下の和田一族はほぼ全滅した。戦後、和田一族の234の首は、固瀬川(境川)の河川敷に梟首されたのである。
義時ら幕政の中枢にいる面々は、義盛を討って威勢を増した。義時は、義盛が任命されていた美作国守護を引き継いだ。大江広元は、横山党が保持していた武蔵国横山荘を与えられたのである。
重要だったのは、義時が義盛の侍所別当を引き継いだことである。すでに義時は政所別当だったので、権力を一元的に掌握することに成功した。まさしく「執権」にふさわしい地位を確立したのだ。
和田合戦によって和田一族は実質的に滅亡し、義時は権力を掌中に収めた。泉親衡の乱から和田合戦に至る流れは、義時により仕組まれた可能性もあろう。義盛は勝てると思い、挙兵したのだが、義村の裏切りで勝利を逃した。義村の裏切りも、義時の計算があったのだろうか。