【光る君へ】藤原定子と一条天皇の関係が顰蹙を買った理由
大河ドラマ「光る君へ」では、藤原定子と一条天皇が豊かな愛情を育んでいたが、公家たちからは嫌がられていた。その理由について、考えることにしよう。
寛和2年(986)、花山天皇が出家したので、一条天皇が即位した。一条天皇に入内したのは、藤原道隆(兼家の子)と高階貴子との間に産まれた娘の定子だった。定子は一条天皇よりも4歳年上だったが、とても仲睦まじかったといわれている。
しかし、2人には不幸が襲った。長徳2年(996)、藤原伊周・隆家兄弟(道隆の子)の従者が花山法皇に弓を射たので、一条天皇は2人の左遷を命じた。検非違使が2人を探し出すため、定子の邸宅を捜索した際、あまりのことに定子は発作的に髪を切ったのである。
定子が髪を切ったことは、出家と等しい行為とみなされた。出家した女性が中宮であることは先例がなかったので、一条天皇は定子と会うことが難しくなったのである。
当時、定子は一条天皇の子を宿しており、同年12月に脩子内親王を出産した。定子は一条天皇と会えなくなっていたが、2人の愛情は決して冷めていなかった。詮子(一条天皇の母)と道長は、一条天皇に定子を迎え入れるよう提案したという。
ただ、定子を内裏に迎え入れることはできなかったので、清涼殿から距離のある中宮職の御曹司(職御曹司)を定子の御所に定めたのである。
職御曹司の場所は内裏の外にあったが、遠かったこともあり、近くに別殿を設けた。一条天皇は人目を避けるため、夜になってから別殿に通って定子に会い、朝になってから帰ってきたという。
これは苦肉の策であり、一条天皇も先例のないことを承知しつつ、ギリギリのところで定子と会っていたのである。一条天皇も定子も気を遣ったかもしれないが、2人のことはバレバレだっただろう。
この事実を知った藤原実資は、日記『小右記』の中で2人への不満を書いている。いかに2人の愛情が強かったとはいえ、極めて不謹慎であり、先例のないことだったからである。
それゆえ、2人の行動は、多くの公家から顰蹙を買っていた可能性があろう。それでも、一条天皇と定子の愛情は、燃え上がるばかりだったのである。