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【光る君へ】藤原道長の娘・彰子が一条天皇に入内することになった背景とは?

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
藤原道長。(提供:イメージマート)

 今回の大河ドラマ「光る君へ」では、安倍晴明が藤原道長に対して、天変地異を鎮めるためには、娘の彰子を一条天皇に入内させるしか手がないと進言していた。その背景について、考えることにしよう。

 最初に、一条天皇に入内した女性を取り上げることにしよう。最初に一条天皇に入内したのは、藤原道隆の娘の定子である。定子が一条天皇に入内したのは、正暦元年(990)10月のことだった。当時、一条天皇は数えで11歳、定子は4歳年上の15歳だった。

 長徳2年(996)7月、一条天皇に入内したのは、藤原義子(藤原公季の娘)である。公季は兼家(道長の父)の弟で、最終的に従一位・太政大臣まで昇進した人物である。

 同年11月、一条天皇に入内したのは、藤原元子(藤原顕光の娘)である。顕光は兼通(兼家の兄)の子で、最終的に従一位・左大臣まで昇進した人物である。

 義子と元子が相次いで一条天皇に入内したのは、同年5月に中宮だった定子が髪を切り、出家したとみなされたことと無縁ではないだろう。いずれにしても、後継者のことを考えると、天皇に入内する女性が多いほうが良いに決まっていた。

 長徳4年(998)2月、一条天皇に入内したのは、藤原尊子(藤原道兼の娘)である。道兼は道長の兄であり、最終的には正二位・右大臣まで昇進し、関白を務めた。このような状況になって、道長も天皇に娘を入内させるべく、重い腰を上げざるを得なくなったのである。

 彰子が道長と妻の源倫子との間に誕生したのは、永延2年(988)のことである。誕生した際には、盛大な祝宴が催されたという。しかし、長徳4年(998)の時点では、まだ数えで11歳だった。

 遅ればせながら彰子が一条天皇に入内したのは、長保元年(999)11月のことである。この時点で、一条天皇と定子の間には、脩子内親王と敦康親王の2人の子がいた。しかし、定子は出家したとみなされていたので、あまり歓迎されていなかった節がある。

 また、義子、元子、尊子は子に恵まれず、後継者たる男子の誕生が期待されていた。道長にとって、彰子を入内させることは大きなチャンスだったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『大坂の陣全史 1598-1616』草思社、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社など多数。

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