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【戦国こぼれ話】関ヶ原合戦の前哨戦、岐阜城の攻防と城主の織田秀信について考える

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
かつて岐阜城主は織田信長らが務めたが、のちに秀信が城主となった。(写真:HIRO493728/イメージマート)

 岐阜県北方町の西順寺で、羽柴(豊臣)秀長禁制と徳川家康朱印状を書き写した「制札」が3枚発見された。うち、徳川家康朱印状は関ヶ原合戦直後のものとして注目される。以下、関ヶ原合戦の前哨戦、岐阜城の攻防を取り上げておこう。

■西軍に与した織田秀信

 関ヶ原合戦において、織田信長の孫・秀信は西軍に与して戦った。天正20年(1592)9月、秀信は岐阜城主となり、13万石を領した。慶長元年(1596)には従三位・権中納言に叙され、「岐阜中納言」と呼ばれた。ここまでは比較的順調であったといえるかもしれない。

 しかし、関ヶ原合戦を控えて、秀信の心は大いに揺れた。そもそも秀信は家康に従い、会津征伐に出陣する予定だったが、準備が整わなかったため、出発が間に合わなかったといわれている。その後、石田三成から美濃・尾張の2ヵ国を与えると条件を提示され、西軍に与した。

 秀信は織田家の血筋を引きながらも、豊臣政権下ではチャンスに恵まれなかった。三成の提示した条件は、誠に心揺れるものがあったのかもしれない。

■池田輝政の進軍

 こうして秀信が西軍に属することを決めると、清洲城(愛知県清須市)に集結していた福島正則・池田輝政の諸将は、戦いの矛先を美濃に向けた。むろん秀信は対策に余念がなく、岐阜城を中心にして東軍の攻撃に備えた。

 慶長5年(1600)8月22日の早朝、池田輝政の軍勢は、尾張国葉栗郡河田(愛知県一宮市)から美濃国羽栗郡河田島(岐阜県各務原市)を経て木曽川を渡ろうとした。百々綱家ら織田方の率いる軍勢は鉄砲隊で応戦するが、池田方の軍勢は木曽川を越えることに成功した。

 勢いに乗った池田方は、同日の昼頃には百々綱家らの軍勢と美濃国羽栗郡米野村(岐阜県笠松町)で交戦し勝利したのである。秀信は自ら出陣し、池田軍と羽栗郡印食(岐阜県岐南町)で戦うが敗北を喫し、虚しく岐阜城へ引き上げた。

■福島正則の進軍

 一方、福島正則は、前日の8月21日に尾張国中島郡起(愛知県一宮市)から木曽川を渡ろうとしたが、竹ヶ鼻城主・杉浦重勝を中心とする織田方の軍勢の反撃に遭い、このルートからの渡河を断念した。しかし、同日の夜、福島軍はさらに南下して木曽川の下流に移動し、東加賀野井(岐阜県羽島市)から木曽川を渡ることに成功する。

 加賀野井城(岐阜県羽島市)に到着した福島軍は、北上して竹ヶ鼻城(岐阜県羽島市)を包囲した。杉浦重勝は援軍に駆けつけた毛利広盛らと反撃するが、正則と旧知である広盛は降伏勧告に従った。重勝は残った城兵と抵抗を試みるが、ついに城に火を放って自害して果てた。

 こうして池田輝政と福島正則は織田軍を次々と打ち破り、岐阜城の近くで合流すると荒田川の河川敷に布陣したのである。

■窮地に立たされた秀信

 8月22日の夜、窮地に立たされた秀信は、西軍が駐屯していた犬山城と大垣城に援軍の要請を行った。秀信の作戦は岐阜城を拠点とし、援軍が到着したとき東軍を挟み撃ちにするものだったという。秀信の家臣の一部からは岐阜城に残存兵力を集結させ、籠城に徹すべきという献策もなされたが、それは却下された。

 改めて秀信は態勢を立て直すべく、自身と弟・秀則が岐阜城に入り、岐阜城へ向かう稲葉山砦、権現山砦、瑞龍寺山砦と登山口四箇所に兵を分散し、守備を固めた。

 8月23日早朝、東軍は西の方県郡河渡(岐阜市)に田中吉政、藤堂高虎、黒田長政らを、東の各務郡新加納村、長塚村、古市場村(岐阜県各務原市)に山内一豊、有馬豊氏、戸川達安、堀尾忠氏らを布陣させた。むろん、大垣城、犬山城から西軍の援軍がやってくることを警戒していた。

■敗北を喫した秀信

 その直後、東軍の浅野幸長は、瑞龍寺山砦へ攻撃を開始すると、続いて井伊直政が稲葉山砦、権現山砦に攻め入った。福島正則は、登山口から岐阜城へと迫った。こうして岐阜城は完全に包囲されたのである。

 ところが、落城寸前の岐阜城に、ついに援軍はやって来なかった。それどころか犬山城主の石川貞清は籠城の最中、東軍に寝返ったのである。こうして岐阜城は、東軍の圧倒的な兵力の前に屈した。

 ぎりぎりまで秀信は抵抗し、最期は自害しようとするが、池田輝政や家臣らの説得により思い止まった。秀信は一命を助けられ、岐阜城下の浄泉坊(現円徳寺)に入って剃髪した。その後、高野山に上り、慶長10年(1605)に高野山の麓の向副(和歌山県橋本市)で没したのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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