【光る君へ】藤原道長も頭を抱えたが、どうにもならなかった賀茂川の氾濫
今回の大河ドラマ「光る君へ」では、賀茂川が氾濫する場面が描かれていた。こうした災害は、当時の人々にとってはどうすることもできず、ただ呆然とするしかなかった。それは藤原道長も同じだった。
ここでは賀茂川の氾濫について、改めて考えてみることにしよう。
「賀茂河の水、双六の賽、山法師。是ぞわが心にかなはぬもの」(『平家物語』)と述べたのは、白河天皇である。いかに天皇の力をもってしても、この3つだけはコントロールできなかったのである。
これを「天下三不如意」という。中でも賀茂川が氾濫すると、人々は逃げるしかなく、当時の土木工事の技術力では如何ともしがたかったのである。
とはいえ、朝廷は決して無策だったわけではない。天暦3年(949)3月、左大臣の藤原実頼らが賀茂川の堤を巡検した(『日本紀略』など)。
巡検を行ったのは、堤の破損個所を見つけるためだった。おそらく朝廷では、賀茂川での巡検を定期的に行い、堤の破損個所の修築を行っていたのだろう。
長徳2年(996)閏7月、賀茂川が決壊すると、川の水が京都市中に流れ込み、人や建物に甚大な被害をもたらしたという(『日本紀略』)。
当時の庶民の家屋は頑丈な作りではなく、簡素な建物だった。大洪水が発生すると、建物はあっという間に流され、人々も落命したのである。
中でも甚大な被害をもたらしたのは、長徳4年(998)9月の大洪水だった(『伏見宮御記録』)。賀茂川と高野川の合流地点に一条堤が設けられていたが、これが決壊。
賀茂川の氾濫により、大量の河川の水が京都市中に流れ込んだのである。大洪水は、まるで海のようだったというから、人の力ではどうにもならなかった。
道長の屋敷の上東門第(土御門第)は、甚大な被害を受けた。道長の屋敷は、京都御所の近くにあった。そこで、朝廷は一条堤の修築を行わせたのである。
当時、賀茂川の堤防工事や修築を担当したのは、令外の官の防鴨河使(ぼうかし)だった。防鴨河使は京都市中に賀茂川の水が流れ込まないよう監視するため、9世紀の初頭に設置された。
洪水では人が亡くなったり、建物が破壊されたりしたが、同時に衛生上の問題が生じた。その結果、疫病が蔓延することがあった。当時、疱瘡が大流行したので、道長は大いに頭を抱えたはずである。