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【光る君へ】いつまでも愛し合った一条天皇と定子。その純愛とは

渡邊大門株式会社歴史と文化の研究所代表取締役
京都御所。紫宸殿。(写真:イメージマート)

 大河ドラマ「光る君へ」では、一条天皇が定子と愛し合っている場面が印象的である。その純愛ともいうべき、2人の深い愛情について考えることにしよう。

 一条天皇が円融天皇と藤原詮子との間に誕生したのは、天元3年(980)のことである。詮子は藤原兼家の娘であり、兼家にとっては待望の外孫の誕生だった。

 将来、外孫が天皇になれば、兼家は摂政、関白として権勢が振るえるので、念願がかなったということになろう。その4年後、一条天皇は皇嗣に立てられた。

 一条天皇が即位するチャンスは、早くも巡ってきた。寛和2年(986)、忯子を病気で失った花山天皇は悲嘆に暮れ、ついに出家を決意した。

 兼家はこのチャンスを見逃さず、子の道兼に花山天皇を内裏の外に連れ出すよう命じた。その結果、花山天皇が出家したので、一条天皇が即位したのである。

 一条天皇が元服したのは、数えで11歳の永祚2年(990)1月のことだった。今なら小学生の年齢であるが、元服すれば立派な大人として認められた。

 したがって、いかに一条天皇が幼くても、結婚することは決しておかしなことではなかった。むろん、候補は大勢いたことであろう。

 一条天皇に入内したのは、藤原道隆(兼家の子)の定子だった。定子が道隆と高階貴子との間に誕生したのは、貞元元年(976)のことである。一条天皇よりも4歳年上だった。

 藤原一族からすれば、兼家の後継者候補である道隆の娘を入内させることは、当然のことだった。まさしく政略結婚である。

 幼い一条天皇にとって、4歳年上の定子はお姉さんくらいの年齢である。2人が結ばれたとはいえ、それはまだママごとの延長線上に過ぎなかったと考えられる。

 しかし、幼い頃から2人は常に接しており、また幼いとはいえ夫婦だったのだから、長い時間を共有することによって、豊かな愛情が育まれたと想像される。

 長徳2年(996)、藤原伊周・隆家兄弟(道隆の子)の従者が花山法皇に弓を射たので、左遷されることになった。

 その後、2人を探し出すため、検非違使が定子の邸宅を捜索した際、定子は発作的に髪を切った。定子は出家したとみなされたので、一条天皇と会うことが困難になった。

 とはいえ、一条天皇の定子に対する愛情は変わらず、周囲の反感を買いつつも、再び定子を招き入れた。それほど一条天皇は、定子を愛していた。

 定子は一条天皇にとって初めての女性であり、終生その愛情は変わらなかった。まさしく純愛といえよう。それは、単なる政略結婚と割り切れなかったのである。

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『蔦屋重三郎と江戸メディア史』星海社新書『播磨・但馬・丹波・摂津・淡路の戦国史』法律文化社、『戦国大名の家中抗争』星海社新書、『戦国大名は経歴詐称する』柏書房、『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房など多数。

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