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樋口尚文の千夜千本 第5夜 「熱波」(ミゲル・ゴメス監督)

樋口尚文映画評論家、映画監督。
ミゲル・ゴメス監督夫妻と筆者。

人食いワニは愛に溺れた夢を見るか?

そんなことから書き出すのもどうかと思うが、幼い頃に家でワニを飼っていたら、それがどんどん大きくなって1メートル50センチくらいの巨体になり、ある夜それが逃げ出して近所で大捕り物となった。今から40年以上も前のことで、日本もずいぶん牧歌的な頃のはなしだ。当時はカラーテレビというものが凄く有難くかさばるもので、それが梱包されていたでかい段ボールの箱が捕獲にはおあつらえ向きだと判明し、上からずぼっとかぶせて観念させた。新しがり屋で目立ちたがり屋の父は、町いちばんにカラーテレビを買い、フォルクスワーゲンのビートルを買い、それに飽き足らずワニまで飼い出した。お天気の日曜の昼下がり、家の庭で洗車される白いビートルと並んでメガネカイマン(アリゲーター科カイマン属)が静かに水浴びしている光景は、なんとなくデヴィッド・リンチみたいだが、むしろ感覚的にはもっと淡々とした妙味のある思い出で、さながらミゲル・ゴメスの世界に近い感じだ。

夫から贈られたワニを飼っていた夫人が、その逃げだしたワニの結ぶ奇縁で隣人と知遇を得る「熱波」を観ていて、そんな忘れきっていた光景が蘇ってきた。そして同時に、この「熱波」という静かなる作品が途方もなく面白く感じられた。しかしそれは何も本当に自分が遠い昭和の時代にワニを飼っていたという極私的な記憶にふれて共感に駆られたということには限らない。と言って、全く無関係というのでもない。つまりは、私がワニを頼りに回想するあの遠い日は、かなり確かな記憶として脳裡に焙り出されるのだが、しかし本当にそんなふうにうららかなものだったのか。知らず知らずのうちに記憶の細部は欠落し、身勝手な粉飾で埋め合わされていはしまいか。

映画というものの面白さ、ひいては怖さを引き出すもののひとつに、その映像がただそれだけでは主観なのか客観なのか、古今東西のどの時空での出来事なのかを確定できないということがある。「市民ケーン」をごく客観的なストーリーテリングだと思って観ていると腑に落ちないところが出て来るのだが、あれが新聞王のいまわの際の長い追想=幻夢だと思えば得心がいったりする。おそらく現在のリスボンを描いた”楽園の喪失”と題された前半から、アフリカのポルトガル植民地に舞台を移した”楽園”という第二部に映画が転調する時、「熱波」にやにわにたちこめるのも、まさにこのあやしげな味わいだ。前半の夢も情熱も潰え果て、ただ心を病むばかりのやっかいな老女・アウロラから記憶の水先案内を託されたはずのベントゥーラは、もう老いて壊れかけている。そんなベントゥーラが辛うじて掘り起こし、語って聞かせていることになっているのであろう第二部は、したがってどこまでも胡乱(うろん)であり、恍惚(ぼけ)の申し送りのようなことになっている。

満ち足りた結婚生活のなかで夢を見る若き日のアウロラと、どこからか流れてきたはぐれ者じみたベントゥーラの道ならぬ恋は、それゆえに激しく燃え上がる。だが、われわれは第一部で老境に達したこの二人のぼろぼろの未来像を、荒涼たるけはいのなかで目撃している。そんな観客がしたたかに覚醒した瞳で眺める、第二部のアバンチュールの甘美な回想は、あたかも目をあいて見る夢のようなものだ。われわれはその若く美しい男女の熱愛に、それがあくまで夢だという気づきとともに立ち合わされる。しかも、その夢の語り部は、もはや正気とは言えない老醜のベントゥーラだということも重々知ったうえで、である。われわれは傷ましい”楽園の喪失”ぶりは確かに目撃した。しかし、この心もとなくあやしげな語り部が追憶する情熱と精彩に富む”楽園”は、本当にあったのかどうか。

そういった次第で、われわれは甘美な”楽園”に耽溺するどころか、それを花も実もある美しい記憶だと感ずるにつけ、逆にせり出して来るものは今しがたまで苦々しく見届けていた”楽園の喪失”ぶりのほうなのだ。それにとどまらず、その”楽園”の記憶すら、どこかあやしい作りものではないのかという疑いもむくむくと立ちあがってくる。そしてこのミゲル・ゴメスの怜悧な残酷さゆえに、「熱波」は言わば夢の崩壊を生きる夢の映画として成立している。

しかしながら、人はそういう追憶という胡乱な夢によって呪縛されている。冒頭にはじまる寓話的な挿話のなかで、亡き愛妻の記憶にとりつかれた探検家は、それをふり払うようにアフリカの奥地へ出かけるが、決してその追憶をぬぐい去ることができないことに絶望して、ワニの棲む川に身を投ずる。だから、ミゲル・ゴメスは徹底して夢に渦中に投身することはなく、夢というものの傍らから虚心なワニのごときまなざしでその危うさ、おかしさ、甘美さを見つめている。「熱波」は、あたまからおしりまで、情理が互いにもたれかからず静かな緊張感の中で並走し続ける、えもいわれぬ味わいの映画である。

映画評論家、映画監督。

1962年生まれ。早大政経学部卒業。映画評論家、映画監督。著作に「大島渚全映画秘蔵資料集成」(キネマ旬報映画本大賞2021第一位)「秋吉久美子 調書」「実相寺昭雄 才気の伽藍」「ロマンポルノと実録やくざ映画」「『砂の器』と『日本沈没』70年代日本の超大作映画」「黒澤明の映画術」「グッドモーニング、ゴジラ」「有馬稲子 わが愛と残酷の映画史」「女優 水野久美」「昭和の子役」ほか多数。文化庁芸術祭、芸術選奨、キネマ旬報ベスト・テン、毎日映画コンクール、日本民間放送連盟賞、藤本賞などの審査委員をつとめる。監督作品に「インターミッション」(主演:秋吉久美子)、「葬式の名人」(主演:前田敦子)。

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