高校野球黄金時代を振り返る! 第3章 PLに桑田・清原がいた時代
昨年11月、甲子園に懐かしいPL学園(大阪)の校歌が流れた。「マスターズ甲子園(タイトル写真)」の一コマである。長く高校球界を牽引した名門は、4年前の夏を最後に、休部状態となっている(16年7月15日の記事参照)。この日、マウンドには、桑田真澄(元巨人ほか)も上がり、詰めかけた高校野球ファンを喜ばせた。ほとんどの人が、30年以上前にタイムスリップしていただろう。(文中敬称略)
1年夏の甲子園決勝で清原初アーチ
1983(昭和58)年夏、池田(徳島)の「夏春夏3連覇」を阻止したPLは、決勝でも横浜商(神奈川)を破って優勝。その立役者が1年生エースの桑田であり、入学早々から4番を任された清原和博(元西武ほか)であった。1年生で名門の両輪となった二人は、「KKコンビ」と呼ばれ、その後の甲子園は、彼らを抜きには語れない。準決勝の池田戦までは桑田の投打にわたる活躍が光ったが、清原は決勝で甲子園1号を放って肩を並べた。この瞬間、名実ともに「KKコンビ」が誕生した。
2年春は初戦から18得点
新2年生となった「KK」は、1984(昭和59)年のセンバツでも優勝候補の筆頭だった。初戦の砂川北(現砂川=北海道)との試合は、PLがケタ違いの破壊力を見せつけた。清原がアーチを架ければ、桑田も2発で18得点。チーム合計6本塁打は、現在も破られていないセンバツの1試合チーム最多本塁打記録だ。2回戦では清原が2打席連続アーチで存在感を発揮して京都西(現京都外大西)を圧倒すると、準々決勝では桑田が初出場の拓大紅陵(千葉)を完封。良きライバルとしての相乗効果が、チームを活気づけていたように思う。しかし、準決勝の都城(宮崎)には大苦戦を強いられた。好左腕・田口竜二(元南海)を打ちあぐみ、両校無得点で延長へ。11回裏、PLは2死1塁で、桑田の当たりは浅いライトへの飛球。これを相手右翼手が落球し、スタートを切っていた走者がサヨナラの生還をした。あきらめずに全力疾走していた走者はもちろん、中村順司監督(73)の日頃からの指導が幸運を呼び込んだ。
岩倉の進撃に優勝逃す
決勝は、無欲の進撃を見せていた初出場の岩倉(東京)が相手で、エースの山口重幸(元阪神)は、キレのいい変化球を低めに集め、桑田と互角に渡り合う。桑田も都城戦から上り調子で、小雨が降る中、両校、ゼロ行進となった。PLの打線は、都城戦から湿りがちで、この日も初回に3番の鈴木英之(駒大~神戸製鋼、現関西国際大監督)が中前に弾き返した1安打だけと、好機らしい好機もなかった。そして桑田が、8回2死2塁から、2番・菅沢剛(青学大~東芝~現東京・成立学園監督)に、甘く入った高めのカーブを打たれ、1点を失った。桑田はこの日、14三振を奪うが、終盤、カーブが甘くなっていた印象がある。そして9回のPLも2死。ここで一本足打法の鈴木が中堅後方へ大飛球。ネット裏で見ていた筆者も、一瞬、「さすがPL、同点アーチ」と思ったが、雨の中、打球はフェンス手前で失速した。まさかの打線沈黙で夏春連覇を逃したPLは、夏の2連覇をめざし、たくましくなって戻ってくる。
2年の夏、清原が1試合3発
夏の初戦では享栄(愛知)に対し、清原のバットが火を噴く。1試合3本塁打の離れ業で、甲子園通算本塁打も「7」とし、ドカベン・香川伸行(元南海)の持つ5本をあっさり更新した。続く、明石(兵庫)、センバツで苦戦した都城も圧倒すると、準々決勝では、松山商(愛媛)の好左腕・酒井光次郎(元日本ハムほか)を打てず、2-1で辛勝した。準決勝も金足農(秋田)の水沢博文に抑えられたが、桑田の起死回生逆転弾でうっちゃった。決勝の相手は、大型チームの取手二(茨城)で、初戦で優勝候補だった箕島(和歌山)を破って勢いに乗っている。エースの石田文樹(元大洋)、主将の吉田剛(元近鉄ほか)ら、力のある選手が揃い、筆者は互角とみていた。
木内マジックにやられ、またも準優勝に
期待通りの熱戦となった決勝は、6回を終わって取手二が2-1とリード。7回に吉田の本塁打で加点し、突き放した。しかし、ここからPLが底力を発揮する。8回に2点を奪って詰め寄ると、9回には先頭の1番の清水哲(同志社大)が同点アーチを放った。打順もよし。球場も、お家芸の逆転劇を期待する。石田は次打者に死球を与えたところで、マウンドから右翼守備に回った。ここが試合のポイントだった。話は逸れるが、取手二の木内幸男監督(元常総学院監督=88)の采配が光ったシーンだ。「石田がカッカしていたんで頭を冷やすために下げた」と説明したが、続投していたら、PLに傾いた流れを止められなかっただろう。我に返ってマウンドに戻った石田は、清原から三振を奪い、桑田も抑えた。延長10回、取手二は、中島彰一(東洋大~現日本製鉄鹿島監督)の決勝本塁打などで4点を挙げ、茨城勢初の優勝を果たした。甲子園で「KK」のPLを倒したチームは3校あったが、筆者はこの取手二が一番強かったと思っている。
伊野商の渡辺に清原3三振
春夏ともに準優勝に終わった「KK」は、最終学年となった。筆者が入社した1985(昭和60)年である。もちろん、センバツも優勝候補の筆頭であり、初戦で浜松商(静岡)を寄せつけず好スタートを切った。2回戦では好左腕・田上昌徳(新日鉄光)のいた宇部商(山口)も、終盤に力の差を見せて退け、天理(奈良)戦では桑田の三重殺が決まって7-0と快勝。優勝間違いなしの雰囲気だった。準決勝の相手は伊野商(高知)で、前年に苦杯をなめた岩倉と同じ、この大会が甲子園デビューの気鋭だった。エースの渡辺智男(元西武ほか)は、重い速球に定評があり、清原には力勝負を挑んできた。絶好調だった渡辺の速球は唸りを上げ、清原が3三振を喫するなど、PLは1-3で完敗。3年生の春は、「KK」が唯一、決勝進出できない大会となった。
清原特大弾で剛腕倒す
大会期間中、日航機墜落事故が発生するなど騒然とした1985(昭和60)年夏、「KK」は集大成を迎える。初戦(2回戦)では、東海大山形を相手に毎回の27得点。この得点は、32安打とともに、1試合の大会記録として今も残る。3回戦で津久見(大分)を完封で破って準々決勝に進んだPLは、センバツ優勝の伊野商を破って出場の高知商と対戦することになった。PLにとっては因縁浅からぬ相手である。エースの中山裕章(元大洋ほか)は、渡辺智男に勝るとも劣らない剛腕という評判で、PL打線といえども攻略は容易でないと思われていた。しかし、清原の驚異的アーチが中山を粉砕する。左翼席上段に打ち込んだ一撃は、清原の甲子園通算13本塁打でも最長と言われ、落胆した中山は、続く桑田にも一発を浴びる。「KKアベックアーチ」である。筆者は、それ以前に清原が日生球場で中堅場外へ放った本塁打を見たが、飛距離はこの中山から奪った当たりの方が上だろう。難敵を破ったPLは、続く創部3年目の甲西(滋賀)も清原の2アーチなどで圧倒して決勝に進む。相手は、センバツで対戦している宇部商だ。
サヨナラで有終の美
宇部商は決勝を前に、主砲の藤井進(青学大)が清原のお株を奪う4本塁打を放てば、田上の控えだった右腕・古谷友宏(協和発酵)が調子を上げていて、春よりもかなり力をつけていた。PLは、古谷のスライダーに手こずり、中盤まで互角の展開。桑田が打たれ、相手に傾きかけた流れを引き戻したのは清原の2発だった。まさに「KK」の甲子園最後の試合にふさわしい。同点で迎えた9回2死2塁、清原の前を打つ主将の松山秀明(元オリックス、現ソフトバンクコーチ)がサヨナラ打を放って、4-3で有終の美を飾った。バットを抱え上げたまま歓喜の輪に加わった清原の姿を記憶しているファンも多いことだろう。5回の甲子園で優勝2回、準優勝2回、ベスト4が1回という輝かしい成績は、高校野球黄金時代のクライマックスと言っていい。桑田は戦後最多の甲子園20勝。清原の通算13本塁打は、今後も破られることはあるまい。
新人の筆者はドラフトの明暗を目の当たりに
両者はプロでもスター選手として活躍するが、ドラフトでは明暗が分かれた。筆者はその顛末を目の当たりにしている。早大進学を公言していた桑田に対し、巨人熱望と言われた清原。その巨人が、あろうことか、桑田を1位指名したのである。清原の巨人熱望は間違いなかったが、あえて「言われた」と記したのには理由がある。ドラフト前日、PL学園は清原の共同会見を設定した。そのインタビュアーが入社1年目の筆者だったのである。事前に、高木文三部長(当時)から、「希望球団は絶対に言わせないでほしい」と釘を刺されていたこともあり、未熟な筆者は言われるがままにお決まりの質問しかしなかった。そしてドラフトの当日、巨人にふられ涙にくれた清原は、西武からの1位指名に応えることになる。一方の桑田は早大受験を断念し、巨人入りした。「密約説」などもささやかれたが、桑田を空港まで追いかけたり、PLに出向いて、連日、その動静を中継で伝えたりしたことはいい思い出である。
「KK」復活でPL復活も
冒頭の「マスターズ」で、桑田はOB会長として、自身が優勝に貢献した3年夏のレプリカ優勝旗を手に行進した(タイトル写真)。試合後の会見では、PL教団側と野球部復活に向けた話し合いをしていることも明かしている。そして、「いずれキヨ(清原)とも一緒にプレーできたら嬉しい」とも話し、往年の「KKコンビ」復活を願った。近い将来、両者が「マスターズ」でPLのユニフォームに袖を通す日がくれば、名門復活の機運も一気に高まるはずだ。