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東京マラソン最大の注目点。3分切りペースと3分00秒ペースの“違い”がわかると観戦が面白くなる

寺田辰朗陸上競技ライター
東京マラソン2017年大会のスタート(写真:田村翔/アフロスポーツ)

 東京マラソン(2月25日開催。都庁スタート、東京駅フィニッシュ)が近づいて来た。日本で唯一“世界標準”を謳う大会で、前世界記録保持者のウィルソン・キプサング(ケニア)ら、世界のトップ選手が多数出場する。ペースメークも日本記録を上回る“世界標準”だが、そのペースに設楽悠太(Honda)、井上大仁(MHPS)らが挑戦する。

 これまでも1km3分を切るペース設定で走り、優勝や日本人トップをとる選手はいたが、終盤にペースダウンをして日本記録更新まではできなかった。だが、日本の男子マラソンは今、充実期に入りつつある。前回2時間08分22秒で日本人トップの井上大仁(MHPS)と、前半異次元ともいえるハイペースに挑んだ設楽悠太(Honda)には、日本記録更新も期待できそうだ。

ペースメーカーの設定は3つ

 大会主催者は昨年に続き、ペースメーカーを以下のように3段階で設定すると公表した。

第1:2分54~55秒=世界記録(2時間02分57秒)ターゲット

第2:2分58秒=日本記録(2時間06分16秒)ターゲット

第3:3分00秒=2時間6分台後半~7分台ターゲット

 従来代表選考会に指定されてきたのは12月の福岡国際、2月の東京、3月のびわ湖と、陸連が主催者に入る3大会。東京五輪選考はMGCが新設され(2019年9月開催が有力)、代表3人中最低でも2人はそのレースで決定する。変革期に入ったマラソン界だが、東京五輪プレシーズン以外は前述の3大会にトップ選手が出場する。

 福岡とびわ湖は、トップ集団のペース設定が3分00秒。そのペースで押し切れば2時間06分36秒のタイムが出るが、30km以降もそのペースを維持することはできなかった。国内レースで2時間6分台を出したケースは、藤田敦史(当時富士通)が2000年福岡国際で2時間06分51秒で走った1回のみ。

 東京も以前は3分00秒ペースだったが、2011年からは3分切りに設定された。15年大会では今井正人(トヨタ自動車九州)が2時間07分39秒の日本歴代6位、現役選手最高タイム(ともに当時)をマーク。前半を2分58秒のペースでも好タイムを出せることを実証して見せた。

 しかし3分切りのペースで、落ち幅を少なくできる選手は限られる。リスクを伴うと言っても良い。リオ五輪選考会だった2016年大会では、今井がブランク明けだったことも影響し、日本選手はそのペースにつけなかった。村山謙太(旭化成)が中間点過ぎまでついたが後半で失速。東京からは誰も、リオ五輪代表に選ばれなかったのである。

 その反省から昨年は従来の2分58秒に加え、3分00秒のペースメーカーも用意した。さらに2分54~55秒も。これは前世界記録保持者のウィルソン・キプサング(ケニア)のためだ。キプサングが今年も出場するため、2年連続で上記3段階のペース設定となったのである(当日の気象コンディションなどで変更されることもある)。

前回の日本人上位3人のペースの違い

 前回の優勝者と日本人上位3選手の5km毎の通過タイムとスプリットタイム(5kmの所要タイム)、中間点通過タイムは以下の表の通り(日本記録の2002年シカゴの高岡寿成、前半が日本最速だった1987年福岡国際の中山竹通も記載)。

公表されているデータを筆者が作表
公表されているデータを筆者が作表

 キプサングは予定通りに第1グループで走り、後半のペースダウンも最小限にとどめて自己記録の2時間03分13秒(前世界記録)に45秒と迫った。日本国内で出た最高タイムを約2分更新。世界トップレベルの走りを見せてくれた。

 設楽と井上は第2グループで走ろうとしたが、第2ペースメーカーが第1について行ってしまった。20~30kmまでしか走らないペースメーカーだが、ペース調整は傍から見るより難しいらしい。設楽は最初はペースメーカーなしの少人数で走り、10km過ぎからは1人でレースを進めた。15kmまでの5kmはキプサングたちより速い14分32秒で走り、第1集団に10秒差まで迫った。

 だが結果からいえば、10km過ぎで設楽から離れた井上の判断が、37km過ぎでの逆転を可能にした。設楽は40kmを過ぎて、前半を3分00秒ペースの集団で走った山本にも抜かれた。山本のラスト2.195kmは、井上も4秒上回っていた。設楽も踏ん張って2時間9分台にまとめ、初マラソンを失敗で終わらせなかった点は2回目以降につながった。

 前回の東京マラソンは、中間点通過が1時間1分台の設楽、1時間2分台の井上、1時間3分台の山本と、前半のペースが大きく違った3選手が日本勢トップスリーを占めた。細かく調べることはできないが、あまり例のないことだ。異なるレース展開をした3人が結果を残した点に、日本男子マラソン陣が充実してきたことが感じられた。

3分切りペースが可能な選手の資質とは?

 前回の井上や山本の走りが実証したように、マラソンは最初から飛ばせば良い、という種目ではない。だがハイペースの入りは、能力や気概の現れの1つであるのは確か。どんなタイプ・考え方の選手が、3分切りのペースに挑めるのだろうか。

 6年前の2012年東京マラソンで、3分切りペースのアフリカ勢に食い下がったのが藤原正和(当時Honda)現中大監督だった。半年後のロンドン五輪で金メダルを取るスティーブン・キプロティク(ウガンダ)、トラックの10000mで五輪&世界陸上の金メダル6個を取ったハイレ・ゲブルセラシエ(エチオピア)らに真っ向勝負を挑んだ。

昨年10月の箱根駅伝予選会で、指導者としては初めて本戦出場を決めた藤原正和監督。現役時代は初マラソン日本最高、世界陸上代表3回と世界に挑んできた<写真:筆者撮影>
昨年10月の箱根駅伝予選会で、指導者としては初めて本戦出場を決めた藤原正和監督。現役時代は初マラソン日本最高、世界陸上代表3回と世界に挑んできた<写真:筆者撮影>

 15km手前から後れ始めて31位に終わったが、先頭集団で走ることが“できた”理由を藤原監督は次のように話してくれた。

「見ていたのはロンドン五輪本番で戦うことです。五輪でも前でレースをしないとメダルに届かない。その思いが根底にあって、東京での走りになりました。レース戦略としても、ハーフまでハイペースで行き、30kmで日本人集団に吸収されたとしても、吸収されるまでの間に休んで、自信のあった30km以降で勝負できると思っていました」

 藤原本人は「自分はスピードランナーではない」と認めないが、大学2年時に10000mのU20日本記録(当時)をマークした選手。

 2年前の村山は前年の世界陸上10000m代表で、藤原よりもはるかにスピードがあった。そのスピードで前半を突っ走った。

 だが、トラックのスピードがあっても、後半まで持たせる自信がなければ3分切りペースで飛ばすことはできない。村山は練習の40km走を2時間6分台で行うなど、名門・旭化成の名ランナーたちと比べても高いレベルの練習ができたことが、外国勢と一緒に走るレースを可能にした。

 マラソンのように長時間の種目は、実際に走ってみないと身体がどう反応するかわからない。そういった種目に挑むにはメンタル面も重要だ。藤原の場合は本人のコメントにあるように、世界で戦う気持ちを持ち続けていたからハイペースに挑むことができた。

 井上も、気持ちの強さが走りに現れている選手。高校時代は全国大会に出られなかったが、世界で戦う気持ちを高校時代から持ち続け、1学年上の大迫傑(Nike ORPJT)や設楽啓太(日立物流)・悠太兄弟、同学年の村山謙太・紘太(旭化成)兄弟らに戦いを挑み続けた。トラックの全国タイトルやニューイヤー駅伝の区間賞は取れないでいるが、マラソンでは同世代で最初に日本代表になった。

 ロンドン世界陸上でも先頭集団の、それも前の方に位置した。アフリカ勢の揺さぶり(ペースの上げ下げ)の影響を受けやすいポジションで走った。川内優輝(埼玉県庁)と中本健太郎(安川電機)は集団の後方で走ったが、井上だけは「後ろから行ったら勝負に加われない」と、先頭のすぐ後ろで走った。

 東京マラソンで外国勢と同じ集団で走るのは、井上にとっては当然のことなのだ。オーバーペース気味なのは覚悟の上。自分が強くなってきたスタンスを崩したら、走りそのものも崩れてしまう。

 そういった世界に挑む覚悟を持った選手たちが、世界トップレベルのランナーたちに挑むのが東京マラソンなのである。 

                  ◇

 設楽の場合は、藤原や井上と同じように世界を目指す意識も理由の1つだが、ペース感覚がこれまでの日本人にないほど独特で、ハイペースで走ることと大きく関わっている。その点については次の東京マラソン展望記事で、日本記録保持者の高岡寿成(現カネボウ監督)の見方も交えながら紹介したい。

 また、三代目“山の神”神野大地(コニカミノルタ)や、初マラソンが注目されている鈴木健吾(神奈川大)が、今度の東京マラソンでは3分00秒ペースで走る。福岡国際日本人1位の大迫も3分00秒ペースで走り、2時間07分19秒の現役選手最高タイムを出した。

 そういった選手たちの姿勢も、東京オリンピックを考えれば決してマイナスではないし、マラソンを自分のものとしていく過程では、有効なスタイルである。こちらも機会があれば、紹介したいと考えている。

陸上競技ライター

陸上競技専門のフリーライター。陸上競技マガジン編集部に12年4カ月勤務後に独立。専門誌出身の特徴を生かし、陸上競技の“深い”情報を紹介することをライフワークとする。一見、数字の羅列に見えるデータから、その中に潜む人間ドラマを見つけだすことが多い。地道な資料整理など、泥臭い仕事が自身のバックボーンだと言う。座右の銘は「この一球は絶対無二の一球なり」。同じ取材機会は二度とない、と自身を戒めるが、ユーモアを忘れないことが取材の集中力につながるとも考えている。

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